紳也特急 126号

~今月のテーマ『見えること、見えないこと』~

●『ペニスのサイズ』
○『ネットの怖さとルール』
●『幼い娘を売る母』
○『見えないこころ』
●『パパはいじめない』

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●『ペニスのサイズ』
 先日の外来でのやりとり。
母:この子、おちんちん小さくないですか。
岩室:普通ですよ(と自分で言いながら「普通とは?」と自問自答する医師)
母:他の子と比べると小さいような気がするのですが。
岩室:そんなことないですよ。仮に小さいとして、何か問題でも?
母:将来、大丈夫でしょうか。
岩室:何が。(とそっけなく返しながら、排尿には支障はないし、勃起時5センチあればセックスも問題なしなのに何を気にしているのかな?)
母:彼女ができるでしょうか。
岩室:お母さんはペニスの大きさでパートナーを選ぶのですか?
母:・・・・・・・・
岩室:持ち物より持ち主が大事ですよ。
 人は見えることについてはすごく気にします。ペニスのサイズだけではなく.身長が高いか低いか、太っているかやせているか、かっこいいかぶさいくか。確かに福山雅治さんは背も高く、がっちりした体格で、何よりかっこよかったです。でも私が彼と同じようになれるはずもなく、みんなが福山雅治さんのようだったらそれもつまらないですよね。「かっこよすぎる坂本龍馬」と言われているそうですが、夢があってそれはそれでいいと思いませんか。
 一方で見えないことの代表と言えば、人のこころの中です。他人のこころもそうですが、自分自身のこころの中も意外と見えないものですよね。そんなことを考えさせられることが続いたので、今月のテーマを「見えること、見えないこと」としました。。

見えること、見えないこと

○『ネットの怖さとルール』
 福山雅治さんとのツーショット写真が届きました。うらやましいですか(笑)。NHK大河ドラマの主人公とのツーショットはなかなかないですよね。でも、もちろんホームページにアップはしません。というかしてはいけません。福山さんの肖像権はもちろんのこと、外に出さない、一般の方が見ないということを前提とした中で(といっても契約をしたわけでもありませんが)一緒に撮っていただいたものですので。ホームページにアップしようものなら、それこそあっという間に世界中に配信されてしまうことでしょう(彼の部分だけが)。
 ネットと肖像権で思いだしたのが5年前、2005年に出版された性教育バッシングの本でした。岩室紳也がどのような活動をしているかを自分のホームページで紹介するために、ある性教育グループが作成した巨大チャンピオン君(私の身長とほぼ同じ高さの包茎の模型)と一緒に撮った写真をアップしていたところ、それがダウンロードされて何とその本に掲載されていました。抗議の電話を入れた際の出版社の方の第一声は「ホームページにアップしてあるんだから使ってOKということじゃないですか」でした。本人の肖像権の問題もさることながら、無断で使ったもので儲けるというのは信じがたい発想でした。
 この事件(?)で学ばせてもらったことは、ネットにアップする情報は、悪意のある人に利用される可能性があることを常に考えておかなければならないということでした。自分が知らないところで、見えていないところで、他の人に、それもでたらめな情報付きで見られているというのは本当に怖いことでした。しかし、私自身もトラブルに巻き込まれて初めて気付かされるというお粗末さです。

●『幼い娘を売る母』
 ネットには様々な情報が氾濫していますが、ネットの怖さを知らないで使っている人が少なくありません。先日の読売新聞に1歳のよちよち歩きの娘のオムツを取り替える場面や裸で両足を広げた写真を売って15万円を稼いだという21歳の母親の記事が出ていました。転売された相手は15人とのことですが、その一人ひとりがネットのいろんなサイトに投稿し、この子の映像がそれこそ未来永劫ネット環境を彷徨っていると思うとぞっとしませんか。親の顔が見たいと思う前に、先の私の話に学んでください。私も「先を考えられなかった」一人です。偉そうなことは言えません。実際、ネットには児童ポルノと言われる小学生やもっと小さいお子さんの映像も氾濫していますが、それをアップしているのが保護者であったり、保護者にお金を払って子どもの裸の写真を撮っている大人たちです。

○『見えないこころ』
 秋葉原の無差別殺人の被告の裁判が始まり、マスコミの論調は「なぜあの事件が起こったのかを本人から聞き出したい」となっています。本人もいろいろ説明するでしょうが、おそらくどのような説明があっても「だからといって無差別に何人も殺していいということにはならないだろう」ということになるでしょう。そして最後は、ネットが悪い、親が悪い、ゆがんだこころ、真相は解明されずでおしまいになってしまうのでしょうか。もっと本質をとらえた報道をしてもらいたいものです。
 「こころを病む」とは「その人のものごとの優先順位が、周囲の人の常識や思慮分別から、大きくかけ離れてしまうこと」と教えてくださった春日武彦先生の言葉がいつも引っかかっていますし、秋葉原の事件を理解する上で非常に明快な解釈が可能となります。人を殺さない、殺してはいけない理由は多くの、というかほとんどの人の中にあるはずです。犯罪であること。いけないこと。悲しむ人がでること。どのような人でも殺す権利はないこと。いろんな理由が一人ひとりの中にあるはずですが、そのような理由が一人ひとりのこころの中に生まれた背景には、これまた多くの人のこころが、思いが関わっています。ところが多くの健全なこころとつながっていない人は「その人のものごとの優先順位が、周囲の人の常識や思慮分別から、大きくかけ離れてしまい」、とんでもない、それこそ社会常識、社会通念からかけ離れた殺人と言う状況を引き起こしてしまいます。

●『パパはいじめない』
 虐待死した7歳の男の子が近所の人に「パパはいじめないよ」と話していたという新聞記事を読み、自分自身がこの子のこころの中が見えていないと反省させられました。「いじめられてません。悪いことをしたら怒られるけど」答えた男の子にはお父さんからの虐待はしつけと映っていたのではないでしょうか。虐待には暴力などの身体的虐待、性的虐待、子どもが生きていく上で最低限必要としているものを与えないネグレクトがあると専門職は定義していますが、虐待を受けている子どものこころの内に関する話はあまり聞きません。この男の子から何をわれわれは学ばなければならないのでしょうか。
 近所の人は、「ぶっ殺してやる」声や、「ギャー」という男の子の叫び声を何度も聞いていたそうです。大人が子どもを床に落とす光景も目にしていた人がいます。虐待死を防げなかったかはもちろん検証されるべきでしょうが、男の子が虐待死するような暴力を受けていながらも、「パパはいじめないよ」と「パパの存在」を大切に思っていたのではないでしょうか。
 おばあちゃんと暮らしていた男の子が、大好きな「ママ」と暮らせるようになったのは「パパ」のお陰と思っていたから、「ママ」だけではなく他の子には当たり前のようにいる「パパ」とも暮らせるようになったことがうれしくて、死んでしまうほどつらいしつけをも彼に我慢させたのでしょうか。先日、親と暮らせない子どもたちの施設で話をさせてもらいましたが、日本の社会には親と暮らせない子どもたちがすごく多いことをどれだけの人が知っているのでしょうか。今となっては亡くなった男の子に直接聞くすべはありませんが、彼にとって「パパ」と暮らすことの意味を大人たち一人ひとりがあらためて考えたいものです。
 亡くなった男の子のこころは誰が見ても病んでいません。むしろ、われわれのものごとの優先順位が、虐待死した男の子の常識や思慮分別から、大きくかけ離れてしまっているから、結果的にこの男の子の命を救えなかったのではないでしょうか。男の子の素直な、パパを思う気持ちに寄り添えないわれわれが、社会が問題ではないでしょうか。
 見えないことをもっと見えるようにするにはどうすればいいのでしょうか。ぜひ一緒に考え続けましょう。