紳也特急 127号

~今月のテーマ『弱くなり続ける男たち』~

●『自分が裁判員になったら』
○『増え続ける男の自殺』
●『生きる力の指標』
○『変化する男たちの指標の数々』
●『発達段階に応じた教育という誤解』
○『発達目標に応じた教育を』
●『裁判員制度の危険性』

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●『自分が裁判員になったら』
 当時2歳の長男をゴミ箱に閉じ込めて窒息死させたとして、監禁致死などの罪に問われた父親の被告の裁判員裁判で、懲役11年(求刑懲役12年)の判決が言い渡されました。被告は長男をオーブンや洗濯機にも入れていたことも認め、検察側は「常軌を逸した虐待」として懲役12年を求刑していました。判決後に取材に応じた裁判員は、「人が亡くなっており、私の中では軽いと思った」(30代女性)、「求刑を出発点にするのが嫌だったので素人なりに計算したが、求刑は自分の想定より短かった」(40代男性)、「素人的に言えば15年とか18年ぐらいと思った」(男性)などと、求刑は軽いとみる意見が目立ったという報道ばかりでした。
 もし、私が裁判員になっていたらどのように発言したかを考えてみました。罪に対する罰を決めるのが裁判の目的でしょうか。確かに死刑という制度がある中で、「人を死に至らしめる」罪で最も重い罰が死刑だとすると、死刑ではない量刑がどう決められるかをもっと国民は勉強しなければならないのでしょうね。今度、刑法学者のお友達に聞いてみたいと思いますが、最近の量刑はどうも「世論」や「マスコミ」が作り上げているようで少し違和感があります。
 そもそも裁判の目的は罪に対する罰を決めることだけにあるのでしょうか。もしそうだとすると、病気を見つけたらどう治療するかという臨床医学の発想と同じです。しかし、罪を、犯罪を予防するために罰があると考えている人がいたとすると予防医学、公衆衛生を今一度勉強してもらいたいですね。
「コンドームを使わないとエイズで死ぬよ」と脅しても、予防ができない人が多く、コンドームの消費量は減る一方です。「飲み過ぎ、食い過ぎ、運動不足でメタボになる」とわかっていても生活習慣病になる人は後を絶ちません。「死ぬよ」や「病気になるよ」という事実を見せても「他人事」です。誰かの「罰」を見せしめにしても、所詮「他人事」だということを残念ながら裁判員制度が教えてくれているように思えてなりません。親に殺されてしまった男の子の死を無駄にしないために裁判員になったら、私は、あなたは何を言うのでしょうか。
 私は今の時点では「弱くなり続ける男たちが悲劇を繰り返している。男たちを強くするにはどうすればいいかをマスコミも考えてください」と言いたいですね。そこで今月のテーマは「弱くなり続ける男たち」としました。

『弱くなり続ける男たち』

○『増え続ける男の自殺』
 最近、千葉県浦安市の自殺対策に関する協議会の委員長を拝命しました。「『コンドームの達人』が自殺対策?」と思うかもしれませんが、実は昨年の3月には京都で自殺のシンポジウムにも出させていただきました。性教育一つをとりあげても、健康づくり、さらにはもっと幅広いヘルスプロモーションの理念で物事を考えていかなければ実際には成果をあげられないと思っています。そのような私の考え方を理解してもらえたため今回も自殺対策の仕事をいただけたようです。
 日本での自殺の傾向と言えば、ここ10年ほど自殺者が30,000人を超えているとか、1998年~1999年の間に自殺者数が急増したことが繰り返し強調されています。私もそのあたりの数字は知っていたので、「何故?」ということに漠然と考えを巡らせていました。しかし、改めて自殺の実態を調べて唖然とすることばかりでした。と同時に思春期の若者対策で感じている様々な課題が、実は自殺にも深く結び付いていたことが明らかになりました。
 1948年から昨年までの自殺者数の推移の男女別統計を今一度見てください。女性の自殺はずっと変わっていませんが、男性は大きく変動しています。そして、自殺が増えるのも減るのも男次第ということにあらためて気付かされました。私の不勉強かもしれませんが、このことはほとんど伝えられていません。そのため、自殺対策と言えば、相談窓口の設置を、お役所のすべての部署で自殺企図を持った人をどう早期発見するかということになっていないでしょうか。もちろんそれらの対策も必要ですが、ハイリスクの人たちへのアプローチだけではなく、すべての人に蔓延している自殺に結びつくリスクをどう克服するかを真剣に考える時期になっていることに早く気付きたいものです。

●『生きる力の指標』
 2001年をピークに十代の人工妊娠中絶率がここ7年連続で低下してきています。若い世代の性感染症罹患率も同じ傾向です。その原因を追及するため様々な議論が行われてきましたが、結論は「男たちがセックスをしなくなった」ということです。「恋愛なんかできなくてもいい」とか「女性と付き合うことよりもっと楽しいことはいっぱいある」という、関係性を拒否する男たちが増え続けているためです。
 もちろん、10代の人工妊娠中絶率は1995年から急増していますので、その時点では男たちは元気だったと反論する人たちも多いのですが、本当にそうでしょうか。私は単純にコンドームを使わない、使えない男たちが増えた結果ととらえています。「そんなはずはない。だってコンドームを使わないでセックスをしたら妊娠するのがあたりまえじゃない」と思っているあなた。どうしてそう思えるのでしょうか。友達やいろんな人と、もちろん自分自身の中で自問自答しながらそう思えるようになったはずです。
 「性」を友達と共有していた時代には、男たち一人ひとりが自分の性衝動に戸惑い、友達間で「オナニーのやり過ぎで頭が悪くなる」とからかいながら、「彼女が妊娠するとやばいぜ」とか、「コンドーム買いにくいけど、使わないと中絶費用が大変だ」といったコミュニケーションの中で性の学習をし、「コンドーム」ということを知り、考え、使えるようになっていました。しかし、人と人との関係性の希薄化が急速に進み、関係性障害の時代になり、男友達同士でも性を話題にできない人が増え、コンドームを使うという発想さえもない男たちが増えた結果、十代の人工妊娠中絶が急増したのではないでしょうか。すなわち、IEC(Information(情報)をどんなにEducation(教育)しても知識は増えるのですが、Communication不足から(コンドームを実際に使用するという)生きる力を発揮できない男たちが急増したようです。避妊にならない膣外射精が一般化したのも「生きる力がない、考えられない若者たち」が急増した結果のようです。
 ちなみに男子がコンドームを使わない一方で、女子も妊娠したら生理が止まるということを知らない人が増えていますが、ある高校の保健室に「ダイエットしているのに体重が減らない」と相談しに来た高校生が妊娠8カ月だったそうです。

○『変化する男たちの指標の数々』
 関係性の障害期から急速に関係性の拒否期へといった変化が起こり、草食系男子、童貞連合、2次元オタクといった男と女の関係性を拒否する人たちが増えていることは多くの人たちが納得できるでしょう。しかし、それぞれの現象に共通する問題があると持っている人はいないと思います。何を隠そう、この岩室紳也も「関係ない」と思っていました。
 男たちの生きる力の指標である十代の人工妊娠中絶の推移に一致して、男たちの自殺数も変化していました。自殺以外の様々な指標、児童虐待相談件数、不登校数、強姦件数、離婚率といった数字が十代の人工妊娠中絶率の変化と同じように動いています。少し前までは十代の人工妊娠中絶率が急増、急減しているここ十数年を「関係性障害期」とひとくくりにして考えていたのですが、先に書いたように、急増した前半は関係性障害期、すなわち、友達と性の話もしない一方で腟外射精のような情報にさらされ、「考えることを忘れて」コンドームを使うことも思いつかず女の子を妊娠させ続けた時代が、その後、彼女を作ることが、すなわち人と人との関係性を構築すること自体が怖くなり草食系男子の時代、すなわち関係性拒否期に突入した結果と見てとれないでしょうか。
 「強姦」というとんでもない犯罪を男たちの生きる力の指標とすることに私自身も抵抗感があるのですが、減り続けていた「強姦」が増えたのが「関係性障害期」に一致し、その後「強姦」が減ったのも「関係性拒否期」に一致しているのは「強姦」という男なら誰でももっている犯罪性を抑えこんでいた「生きる力」が変化した結果と考えられます。

●『発達段階に応じた教育という誤解』
 関係性を拒否する時代になった理由は様々だと思います。原因を一つの事象に押し付けることはもちろんできません。ただ、最近、中高生に話をしながらすごく疑問に感じることがあります。「妊娠したら生理(月経)が止まる」ということを知らない中高生が少なくないだけではなく、「彼女なんかいらない」ということを本気で思っている男子が確実に増えているという実感です。「そんなはずが・・・」と思う方は、ぜひ近くの中学校や高校に問い合わせてください。
 彼らのようにそもそも自分自身の本能である性欲に蓋をしている人たちは、残念ながら今の学校教育に支えられながら自分の本能と、性慾と向き合わなくて済むやさしい社会の中にいます。性教育ではよく「発達段階に応じた教育」と言われますが、男たちが自分には性慾がなかったように生きようとしているのを放置していいのでしょうか。発達段階に応じた性教育とは、発達しなくてもいいと思っている彼らを後押しする性教育になっています。

○『発達目標に応じた教育を』
 教育論はわかりませんが、教育目標、子ども達の発達目標があってはじめて教育と言えないでしょうか。もちろん、「中高生がセックスをしない」という目標もOKです。しかし、パートナーにふられるのが怖いからそもそも声をかけられない男たちが増えた結果中高生がセックスをしないことや、そもそも恋愛、といっても相思相愛ではなく、ふられる恋愛さえも経験しないまま中学校を卒業する若者たちの実態を無視して、若者たちのセックス離れを喜ばないでいただきたいですね(笑)。
 皆さんは中学生にどのような性的発達目標を設定しますか。私は、「人をめちゃくちゃ好きになる」だけではなく、それこそ「セックスもしたくなり、そのことを空想しながらオナニーにふける」、なかには「レイプ(強姦)などを想像しながらオナニーをする中で、自分の犯罪性を現実化させないためにはどうすればいいのかを悩む」経験を繰り返しながら、実際に犯罪を犯さない、結果的にストレスを乗り越えられる人に育って欲しいと思っています。少なくとも私はそのような発達過程を経ました。

●『裁判員制度の危険性』
 しかし、賢い、利口な大人たちは「レイプ(強姦)は犯罪だ」と教えればいい。「岩室はそんな卑劣なことを想像しながら大人になったのか」と非難するでしょうね。「だいたい、自分の中の犯罪性や異常性は言語化しないものだ」と呆れるでしょうが、関係性の中で学べない若者たちには「正解」ではなく、「正解にたどりつくプロセス」を伝えなければなりません。もし私が正解だけを教えてくれる大人たちに育てられていたら今頃とんでもない人間になっていたのでしょうね。
 裁判員制度が犯罪を犯した人たちを特殊な人たちと切り捨て、その人たちがどうして犯罪に走ったかに学ばない社会を作っていく危険性はないでしょうか。もちろん裁判員の一人ひとりが問題なのではなく、それを取り上げるマスコミの視点に問題がありそうです。「民意」、「市民感覚」は大切です。でも「民意」が、「市民感覚」が少々おかしくなった時にはどうすればいいのでしょうか。実際、第2次世界大戦に突入した時には「民意」や「国民」の後押しで戦争に突入したことは記憶に新しい悲劇です。
 で、どうすればいい?
 みんなであいさつをしあいましょう。