紳也特急 130号

~今月のテーマ『つながりで生まれるうれしさ』~

●『うれしかったこと』
○『つながりで生まれる気付き』
●『「身内」と「赤の他人」だけの社会』
○『人権のない国の人権教育』
●『「苦しい」と「うれしい」は紙一重』
○『自分だけでうれしい人たち』

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●うれしかったこと
 「最近うれしかったことは何ですか?」
 こう質問されたら皆さんはどう答えますか。
 私がすぐ思いついたのが、その朝作ったお味噌汁でした。「岩室紳也が味噌汁を作る?」と疑問に思った人もいるでしょうが、何を隠そう、私は時々味噌汁を、というか朝食をつくります。「そう書くとまるで毎日のように作っていると誤解されるからやめてちょうだい」とおしかりの声が聞こえてきそうですが、一応、年に何回かは作るので嘘ではありません。
 ちょうどその朝、葉玉ねぎがあったのでお味噌汁の具にしようと葉と身を分けて切り、身(玉ねぎ)の所を先に茹でた後に葉の部分を入れて作ったところ、身のところも葉っぱのところもちょうどいい加減に仕上がっていて「やった」とうれしくなったのを思い出していました。というのも実は「適当」にいれて上手く出来ないことが何度かあったからです。いつも「料理は科学」と教えてくれる奥さんの言葉を思い出しながら、すぐ茹であがってしまう葉の部分を後に入れるとちょうどいいと思ってやったら思い通りになっただけではなく、その奥さんに「美味しいよ」と言ってもらえたのがうれしかったのでした。
 その後も毎日のように「うれしかったこと」を考えてみると、実は毎日うれしいことが続いていました。
 講演が受けたこと。
 原稿が完成したこと。
 ご飯がおいしかったこと。
 PowerPointに埋め込んだ「いきものがかりの『YELL』」とスライドの文字が結構思い通りになったこと。
 4年ぶりに訪れた信州の春が超きれいだったこと。
 かたくりの写真が撮れたこと。
 ちょっととっぽい感じの女子高生が「愛の反対は無関心」を知っていたこと。
 数え上げるとうれしかったことは数限りなくあります。うれしいことを振り返ってみると、実はどの喜びも「自分の喜び」であると同時に、それを誰かと共有できている時に「うれしい」という感情が強くなっているように思いました。そこで、今月のテーマは「つながりで生まれるうれしさ」としました。

『つながりで生まれるうれしさ』

○『つながりで生まれる気付き』
 まず、何よりも「うれしかったことは」と聞いてくれた人に感謝です。それは月刊地域保健という雑誌で保健師さんたちの専門性をどう考えるかというインタビューを受けた時の質問でした。
 保健師さんたちと仕事をすることが多く、実際にいろいろと期待しているのですが、保健師さんたちに自分自身が何を求めているのかをきちんと伝えることは実は大変難しいことです。今回のインタビューでは編集者の方が時々カウンセリング的に私の話を聞き出してくださった上に、私がどーっと吐き出した思いを言葉に、原稿にしてくださいました。カウンセリングをしてもらった上に、自分の思いを上手にまとめてくださいました。そのお礼を伝えたところ、さらに次のようなやり取りがありました。

編集者:カウンセリング……言葉の「もちつき」で、私が数回「返し手」を担ったに過ぎません。

岩室:「返し手」を「ビンタ」、「平手打ち」と勘違いする人たちが増えていますね。それが怖いから最初から切り餅を買う。

 なるほど、カウンセラーは「返し手」を使ってどんどんカウンセリングを受けている側のこころの中の思いを引き出してくれるのです。つながるからこそ気付きも生まれ、うれしい気持ちになれるのですが、人とつながることが苦手な人は、「返し手」が「ビンタ」や「平手打ち」と思えてしまうようです。講演中に生徒さんに近付いて行くと「つながり拒否症」とも思える、「とにかく私に何も聞かないで」というオーラを発している、人とつながることが本当に苦手な子どもたちが増えているように感じています。

●『「身内」と「赤の他人」だけの社会』
 現代性教育研究月報に北丸雄二氏(NY在住ジャーナリスト/作家/元・中日新聞(東京新聞)NY支局長)の『「私」から「公」へのカム・アウト─エイズと新型インフルエンザで考える─』で興味深い分析をされていました。(http://www.kitamaruyuji.com/stillwannasay/2010/05/post_13.html参照)。
 アメリカ型社会はプライベート(私)とパブリック(公)が並立し、その間を個人が行き来しているそうです。なるほどと思いませんか。そして他者は、自分とは違う可能性として他者のまま存在することが認められています。また、「公共」とは他の人と思いを同じくできる共通の場であり、「公共」の場を一人ひとりが大事にするという意識が生まれていると紹介しています。
 それに対して、日本社会は「身内」と「赤の他人」で構成されていて、「身内」と「赤の他人」しかいない社会には「公共」という場は存在しないと分析されています。確かにエイズにしても、沖縄の普天間基地の問題にしても当事者にならない限りは他人事(赤の他人の問題)。同情はするが身内を巻き込まないでと思っている人が多くないでしょうか。「他人事意識」という言葉を「赤の他人の事意識」と言い換えるとすごく日本が理解しやすくなりませんか。北丸氏の原稿を読み、「身内(客人)」と「赤の他人」で構成されている日本社会だからこそ他人事意識が生まれて当然だということがすっきりし、うれしくなりました。(なお、「お客さん」も存在するとされていますが、「客人」はある意味身内ととらえられると思いました)

○『人権のない国の人権教育』
 北朝鮮のことではなく日本のことです。学校にエイズ教育や性教育で呼ばれる際に、学校側が使う予算枠が「人権教育」ということが少なくありません。「エイズの人を差別しないような人権教育をお願いします」と言われる度に、どことなく違和感を感じていました。日本の学校では人権教育というのが盛んですが、私を含め、そもそも人権ということが感覚的に落ちていない人が多いようです。人権とは、一人ひとりが公共の空間で生きていくために、一人ひとりが生きていく権利をもった存在としてつながった社会が存続するために保証し合うものです。「日本で一番HIV/AIDS患者さんの人権を侵害しているのは医者です」と言い続けてきましたが、どうもその話はいともたやすく笑い飛ばされるだけでした。「医療」を「公共のシステム」ととらえると、HIVに感染している人が、他の疾患の人と同じように医療を使えない、診療を拒否されるということはまさしく人権侵害です。しかし、「人権」は「公共」がない社会、「身内」と「赤の他人」の社会では存在し得ない考え方だということにたどりつき、納得させられました。

●『「苦しい」と「うれしい」は紙一重』
 コバケンのGoing My Wayにあわせて作ったスライドを講演で流すたびにいろんな思いが去来します。比べるから苦しくなるのでしょうが、比べるからわかること、うれしくなることもあります。男女の違いをある女子大で話をしたらこんな感想をもらいました。
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 先生の授業について様々なことを考えました。私は男性という生き物について非常に無知であったため、衝撃的な事実ばかりでした。男性も女性も同じ人間だし(動物ではないわけだし)、同じ日本人だし、まして同じような環境で育ってきたのだから、考えていることは私とさほど変わらないだろうと思っていました。もしかしたら、同じ思いであってほしい、と男性に願っていたのかも知れません。しかし、先生の授業を通して男性から見る異性(女性)と、女性から見る異性(男性) のとらえ方は、異なる部分がある、ということを超えて、全く違うのだということを思い知らされました。
 男性と女性とここまで異性に対して感じるものがどうしてここまで違うのか、どうしてそんなに男性はセックスがしたいのか、という疑問がふと出ました。きっと男性も同様、女性のセックスに対する考えを理解できないではないかと思います。
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 男と女が違う発想、性的関心、嗜好、思考、志向を持っているというのは常識だったはずですが、それが常識ではなくなったとしたら、デートDV、デートレイプなどの男女間のトラブルや事件があっても当たり前なのでしょうね。
 ここまで書いていたら「先生に聞いてみたいと思った事があったので、メールしました。この前、付き合ってた看護師さんのおなかの赤ちゃんを、薬を使って堕胎させたお医者さんがニュースになってましたが、先生はどう思いましたか?」というメールが入ったのでそのことをあらためて考えてみました。

○『自分だけでうれしい人たち』
 春日武彦先生の「『こころを病む』とは、その人のものごとの優先順位が、周囲の人の常識や思慮分別から、大きくかけ離れてしまうこと」という言葉をいつも反芻しています。不同意堕胎という罪状が存在していることさえも知りませんでしたが、不同意堕胎の前に、「子どもができたら困るのならどうしてコンドームを使わないのだろうか」と思った人も多いと思います。しかし、私はさすがにそうは思いませんでした。この事件を聞いた時に、「こころが病んでいる人が増え続けているから、また同じように他者のことが考えられない人たちによる事件がおこるのだろうな」と思っただけです。
 男の性慾を「興奮→勃起→射精→満足→おしまい」と奈良林先生が教えてくださいましたが、よく考えると、男は一人完結型の性慾です。オナニーはその最たるものですが、相手ができた時は、その人の事を少しは考えないでしょうか。でも、考え過ぎると「セックス恐怖症、セックスレス」になり、考えられないと「コンドームを使わない」。できちゃったら「堕ろす」。何となく納得しませんか。そもそもセックスという行為を始める前に、いろんな人とうれしい体験を重ねることができれば、自然と思いやる気持ちも育つはずです。このような気付きをもらえたことに(うれしいというと誤解がうまれそうなので)感謝です。つながっているからうれしい思いになれる。このことをもっと多くの人に伝えられるよう、これからも頑張ります。