紳也特急 137号

~今月のテーマ『育ちの条件』~

●『あけまして、おめでとうございます』
○『存在するだけでその子の存在が認められる場』
●『家庭の学校化』
○『第2、第3の家庭の喪失』
●『学校は多様性を学ぶ場』
○『自己肯定感を高める、他者がいる環境』

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●『あけまして、おめでとうございます』
 2011年のお正月を皆さんはどのようにお迎えでしょうか。私は家で家内と猫たちとのんびり過ごしています。2010年も診療、講演、原稿に追われる日々でしたが、PowerPointやYouTubeの画像をバージョンアップさせたり、仲間たちと「健康なくに」という本を出したり、福山雅治さんとネクタイがペアルックになったりと、少しずつ前に進んでいるのかなと自分で勝手に思っています。そして今年も同じような生活が続くであろうスタートになったことに感謝です。
 2010年最後の講演は飛騨高山でした。夜回り先生の水谷修さん、飛騨千光寺住職の大下大圓さん、コンドームの達人の岩室紳也の3人が1000人の聴衆に「“いのち”にありがとう」というテーマで話をしました。同じく誕生したはずの“いのち”でも、育ちの違いで生き方も死に方も変わってしまうことをあらためて感じさせられました。おりしも、横浜市で次世代育成計画の改訂作業の中で、若者たちが健全に育つためにはどのような環境が必要なのかを議論していたので、今年の最初のテーマは少し重く、「育ちの条件」としてみました。

『育ちの条件』

○『存在するだけでその子の存在が認められる場』
 自分自身や周囲の人の育ち方を見ると、何となく、人は自然に、どこにいても当たり前のように育っていると錯覚してしまいます。人が育つ上で、家庭の機能、学校の機能、地域の機能のどれもが重要だということは漠然と理解できるものの、私自身、その3者の役割分担について真剣に考えたことがありませんでした。しかし昨年、横浜市の次世代育成支援行動計画に関わる中で考える機会を得ました。
 横浜市の事業の一つとして、貧困や非行傾向といった課題をかかえる若者たちを主たる対象とした居場所をつくっている方が、「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所が必要と繰り返しおっしゃっていました。正直なところ、最初にその言葉を聞いた時には違和感があり、「何もしなくて良い」とか、「存在するだけでその子の存在が認められる」といったことの意味がよくわかりませんでした。「何もしなくて良い人っているのか」とか、「存在するだけでその子の存在が認められるということはある意味わがままでは」と思っていました。しかし、私の世代が育った時代を振り返ってみると、家庭はまさしく「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所でした。
 昔の保護者はお金を稼ぎ、料理、洗濯をはじめ家事全般をこなすだけで精一杯でした。冷蔵庫も冷凍食品もなく、買い物は毎日のようにいかなければならない、洗濯も全自動洗濯機や乾燥機はおろか洗濯機さえもない時代は、一日中家事に追われ、保護者は子どもたちに構うどころか、食べさせていく、生活させていくだけで精一杯でした。当然のことながら保護者も子どもたちには多くを求めず、子どもたちはそこにいるだけでいい存在でいられました。辛いことがあってもとりあえず帰る家がありました。そして、そこには温かいご飯が、洗濯された服がありました。偏差値という言葉に踊らされることなく、受験戦争という言葉もなかった時代は、学校で勉強をして、宿題もほとんどなく、放課後は学校や近所の友達と遊んで、家には単にぼ~っと帰って、食事をして、兄弟げんかをして、テレビを取り合って、風呂に入り、後は寝るだけでした。

●『家庭の学校化』
 家事の中に洗濯機などの電気製品が入り込む一方で少子化が進んだ結果、保護者が一人ひとりの子どものことを考える時間と余裕が増え、家庭の学校化が進みました。「家庭の学校化」という言葉も、横浜市の居場所の議論の中で教えてもらいました。保護者たちが、子どもが高学歴になり、高い収入が得られるようになることを期待しつつ、子どもたちの成績に一喜一憂するようになった結果、家庭の学校化が進みました。受験戦争という言葉が使われるようになり、「学校だけに任せておくと受験戦争に負ける」という現実もあってか、学校外で勉強する場(塾や予備校)の確保が保護者の関心事となり、気が付けば保護者が子どもたちに「勉強しろ、勉強しろ」とはっぱをかけるようになりました。その結果、学校だけなら我慢が出来たのに、家庭でも勉強、勉強と言われる。でも勉強は嫌いだ。授業中、聞いているだけでもつらいのに家でも勉強している姿を見せなければならない。学校でもらった成績表に文句を言われ、塾や予備校の成績についてもがみがみ言われる。これでは子どももたまったものではないですよね。そのような家庭は当然のことながら「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所にはなり得ません。

○『第2、第3の家庭の喪失』
 では、昔からすべての家庭が「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所だったかというとそうではなかったはずです。そうではない家庭で育った子どもたちにとって「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所となっていた所がどこだったかを、横浜市の別の居場所にお邪魔した時に教えてもらいました。そこは地域の子どもたちが誰でも来られる居場所づくりを心掛けていました。ぶらっと立ち寄り、そこにいるお兄さんとしゃべり、「元気ないな」とか、「気をつけて帰れよ」と声をかけてもらうそんな居場所でした。「さっき来た子は実は家がいろいろ大変なんだけど、ここに友達と来るようになって、大分落ち着いて来たんですよ。ここはある意味第2、第3の家庭かな」とおっしゃった時に、まさしく「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所としての家庭になっていると実感させられました。親戚が多かったり、友人の家庭や地域の人たちとの交流が多かったりすると、そこが第2、第3の家庭となって、「また親に怒られたのか」とか、「気にするな」といった声をかけてもらえ、そこが「何もしなくて良い」、「存在するだけでその子の存在が認められる」居場所を獲得することができると思いませんか。

●『学校は多様性を学ぶ場』
 私は中学1年から2年の途中まで今の京都府長岡京市にある公立の中学校に通っていました。そこには成績がいい生徒もいれば、成績が悪い人もいました。同級生に知的障がいの子もいましたし、その子の面倒をいつも見ていた○子ちゃんもいました。当時は学校が荒れていて窓ガラスを割ったり、教師に暴力を振るう先輩もいたりしましたが、一人ひとりがのんびりと育っているという印象でした。今思うと、成績の良し悪し、家庭の貧富の差、障がいの有無といったことが一人ひとりの学校生活に大きく影響することなく、学校はとにかく行って、一定の時間をそこで過ごして来なければならないところでした。また、学校には多様性が当たり前のように存在していたため、学校にいるだけで多様性を受け入れる感性が育ったように思います。
 そもそも学校は何をする所なのでしょうか。私は単純に「勉強を教えるところ」だと思っていました。しかし、勉強の成果、学習状況の評価をテストで行うと自ずと優劣が出てきます。小学生時代を過ごしたケニアの小学校は成績がいい子は一番後ろに座らせられ、一番成績が悪い子が先生の目の前に座らされました。その時の理屈は「勉強ができない子にきちんと目配りをするため」で、そう言われた子どもたちも素直に「成績の違い」を受け入れていました。成績がいい子は飛び級をさせられたのも、「その子がせっかく勉強する力があるのにそれを削がないため」でした。もっとも成績が悪いがサッカーは滅茶苦茶上手いと仲間から尊敬されている同級生もいましたし、飛び級をすれば運動能力の差が歴然としていましたが、それもまた当たり前に受け入れられていました。
 さらに、思春期になると性的な関係で惹かれあったり、認められたりする中で、勉強ができるからといってもてるわけでもなく、運動ができるからといってもてるわけでもない、また新たな価値観や基準が存在することを学びます。このように学校、それも中学校や高校は多様性に触れ、多様性の中で生きていくことを学ぶ場だったことに今さらながら気づかされました。しかし、今の学校では「多様性に触れ、多様性を認め合い、多様性の中で生きていくことを学ぶ場」としての機能が薄れてきています。

○『自己肯定感を高める、他者がいる環境』
 一方で、最近「自己肯定感」という言葉を使う方々が増え、少々うんざりしています。「自己肯定感を高めましょう」とか、「自己肯定感が高まるような取り組みをしましょう」という正解はいいので、その方自身がどうやって自らの自己肯定感を高め、今でもその自己肯定感を維持できているのかを説明してもらいたいものです。
 そもそも人が健全に、健康に育つためには、WHO憲章にあるように身体的、精神的ならびに社会的に良好な状態であるだけではなく、WHOの議論にもあるように「スピリチュアル」にも良好な状態であることも重要です。自己肯定感はまさにスピリチュアルな部分です。自己肯定感とは字のごとく、自己の存在を肯定的に受け止められる感覚であり、自分の中で完結するものではなく、他者との関係性の中で積み上げていくものです。さらに、ある環境の中では高められていた自己肯定感がもろくも崩れ去ったとしても、また別の環境に身を置くことで自己肯定感が回復して行くことがその人が生き続ける上で不可欠な状況となります。逆にいろんな、多様な環境に身を置き続けないと、どこかで自己肯定感が挫折をした時に健康な状態に戻れなくなります。
 「認める」ということが自己肯定感を高めるためのキーワードだとすると、学校化した「家庭」の増加、「多様性に触れ、多様性を認め合い、多様性の中で生きていくことを学ぶ場」としての学校の崩壊、「いるだけでその人の存在が認められる地域」が機能しなくなったことで一人ひとりの自己肯定感が低下している社会になっているのは当たり前のことなのですね。で、どうする? 一人ひとりが「いいじゃない いいんだよ」と言い合える社会を目指せばいいだけですが、これが難しい。でも、頑張りましょう。
 本年もよろしくお願いします。