紳也特急 139号

~今月のテーマ『こころを病むプロセス』~

●『やっぱり自己肯定感ですよ』
○『「こころを病む」とは』
●『健康の定義の改訂案』
○『自己肯定感とは』
●『「スピリチュアル」とは』
○『時代への過剰適応』

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●『やっぱり自己肯定感ですよ』
 「先生の講演を聴いていて、やっぱり性教育は自己肯定感を育むためにも大事だと思いました」とうれしそうに聴衆の保健師さんが話をしてくれました。「自己肯定感」という言葉を安易に使う人が多いと思っているのは私だけでしょうか。正直なところ、未だに「自己肯定感」ということの意味がよくわかっていません。というのも、岩室紳也は一度も「自己肯定感」という言葉が自分の中にストンと落ちたことがないからです。
 皆さんは「自己肯定感」を感じたことがありますか。「自分」を表現すると、いやな自分。醜い自分。反省だらけの自分。人に言えない自分。「自分」という存在に何か修飾語をつけるとすると、日本人の悪い癖なのか、正直なところあまり肯定的な言葉が出てきません。だからと言ってすぐに落ち込んだりするわけではありません。確かに人から見れば、医者であり、本も書いていて、講演はそれなりに評判がよく、収入も人よりは上で、いい車にも乗っている。でも、岩室紳也自身の「自己肯定感は?」と聞かれると良くわかりません。これまた私の癖で、先のコメントをくださった保健師さんに「あなたはどんな時にご自身の自己肯定感を感じられましたか?」とお聞きしたら、「良くわかりません」との返事でした。自分がどのように自己肯定感を獲得したかが曖昧なのに、どうして私の話を聴いて「性教育は自己肯定感を育むために大事だと思いました」となるのでしょうか。私の話の基本は、「自分が経験したことを土台に話しましょう」なのですが、どうも自分の経験を振り返ることが苦手な人が多いですね。と思っていたら、その自己肯定感と言われるものを完全に否定され、私自身が「こころを病む」という経験をさせていただきました。そこで、今月のテーマを「こころを病むプロセス」としました。

『こころを病むプロセス』

○『「こころを病む」とは』
 精神科医の春日武彦先生は「こころを病む」ことを「その人のものごとの優先順位が周囲の人の常識や思慮分別から大きくかけ離れてしまうこと」とおっしゃっています。私もこの考え方でこころの病を理解したり、説明したりしてきました。ただ、正直なところ、自分もいずれはこころの病を経験するかもしれないけれど、それを克服するすべ、というか環境がそれなりにあり、「当事者となる可能性は」と聞かれても、それほど確率は高くないと思っていました。ところが、世の中にはいろんな魔物が棲んでいるものです。
 仕事上の関わりで、「その人のものごとの優先順位が岩室紳也の常識や思慮分別から大きくかけ離れてしまった人」と出会いました。そのような方はどこにもいますし、日常生活の中であればやり過ごしたり、距離を置いたりして事なきを得る場合がほとんどです。患者さんの中にもその人のものごとの優先順位が岩室紳也の常識や思慮分別から大きくかけ離れてしまった人と出会うことはありますが、そのような方とはもともと医者患者関係という一定の距離があり、少なくともその人のものごとの優先順位で岩室紳也のこころを病む状態になることはありません。しかし、契約した仕事で継続的に関わらなければならない場合は、「あなたのものごとの優先順位は岩室紳也のものと異なりますので距離を置きます」とはいきません。そして、その優先順位のアンバランスがず~と続きました。

●『健康の定義の改訂案』
 WHOは1948年に定めた健康の定義にspiritualとdynamicを加え、“Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well-being, and not merely the absence of disease or infirmity.”に改訂するか否かの議論を1999年に行いました。今までこのことを真剣に考えたことがなかったのですが、今回、自分のこころがかき回される事態になったり、自己肯定感や思春期の若者に必要な居場所の意味といったことを考えたりしていて、この改訂を進めようとした人たちの思いが何となくわかったような気になりました。
 “Dynamic”とは動的、すなわち「健康であり続ける」ことの大切さを訴える言葉です。確かに今日まで元気でも、明日、突然からだやこころの病を抱えることは誰にでもあります。ただ、この言葉は逆に健康であり続けることの難しさを考えれば、病気や障がいと共にどう生きるかと言うことを突き付けているとも言えます。

○『自己肯定感とは』
 健康の定義の改訂案が通らなかった背景に、この案を出してきたイスラム圏と日本を含む欧米圏の対立があったと聞きます。Dynamicはともかく、確かにspiritualと言う言葉をどうとらえればいいか迷ってしまいます。辞書でひくと「霊的」、「精神的」、「心の」と訳されていますが、mentalとの違いを上手に表す日本語はないようです。日本スピリチュアルケア学会もカタカナ表記になっていて、訳語やspiritualについての解釈は特に紹介していません。
 今回、こころを病む状況に限りなく近づいたのは、自分自身の考え方が、表現力が、対応力が、説得力が、というか、すべてが繰り返し否定される感覚から抜け出せない恐怖感を味わったからでした。誰しも他人に自分の考えや行動等を否定された経験はあると思います。しかし、一回否定されたからと言って、誰かに否定されたからと言ってこころを病みませんよね。それはどうしてでしょうか。「あんたはいつもマイペースで好きなことをやっているから、たまにはこのような経験をするといいんじゃないの」とどこからともなく聞こえてきそうですが、逆に、どうして今まで同じようなことがあってもこころを病まなかったのでしょうか。
 こころが、ずしんと落ち込んでいる時にふと思ったのが、「自己肯定感とは、自分のことを他者に肯定的に受け止められるスピリチュアルな感覚」だということでした。その方とのやり取りは今に始まったことではないのですが、とんでもない状況だとして受け止める他者が存在し続けてくれていたことでこころが病む状況を予防することができていたようです。しかし、組織には人事異動がつきものです。そろそろ私を支えてくれ続けていた人がいなくなると いう恐怖感を感じた時、自ずと自己肯定感を維持し続けることが難しいという思いにつながりました。

●『「スピリチュアル」とは』
 「スピリチュアルに良好な状態」についていろんな人に聞いてみると、「元気」、「やる気」、「ありがとう」、「自己肯定感が高い」、「絆」、「笑顔」、「褒められる」、「夢」、「希望」といった言葉が出てきました。確かにそのような言葉が出てくる状態って健康ですよね。逆にスピリチュアルに良好ではない状態とはその逆です。いろんなストレスがあっても、誰かにそれを受け止めてもらえたり、慰めてもらえたり、共感してもらえたりするとストレスを乗り越えられます。
 ところが、自己肯定感を、スピリチュアルに良好な状態を否定し続けられ、かつそれを乗り越えるサポートがない、なくなると実感した時、人はこころを病んでしまうのではないでしょうか。いじめ、職場でのパワハラだけではなく、様々な関係性の中でストレスからこころを病んでしまう人がいますが、自分自身が追い込まれてみて「本当だ」と実感した次第です。で、どうした?関係性を断つ選択をしました。私の場合は契約を一つ失うだけですが、これが職場での人間関係で起これば出社拒否。学校だと不登校。地域や家庭だと引きこもり。病理は深いですね。

○『時代への過剰適応』
 「心の闇に魔物は棲むか」という本の中で、春日武彦先生が秋葉原の事件を次のように分析されていました。
 「時代の病理というよりも、むしろ(時代への)過剰適応といった言葉の方が犯罪の理解には適切なことが多いのではないだろうか。(中略)その後についてなぜ考えなかったのか。(中略)全国各地を彷徨する派遣労働者という立場に注目するならスキルの積み重ねもキャリア・アップもないこのような職業形態において一番必要とされるのは、未来のことなど決して想像しないという態度であろう。」
 いつクビになるかわからない。次はどのような仕事につくのかわからない。収入が増えるのか、収入が減るのかもわからない。わからないことづくしの生活を強いられる中で、「夢」や「希望」といったスピリチュアルな側面を享受することができない。にも関わらず、多くの派遣労働の人たちがこころを病まずにいられるのは、様々な関係性の中でその人のスピリチュアルな面が崩れない工夫を一人ひとりがしているからだと実感させられました。と同時に、派遣労働という職業形態にメスを入れない社会こそがスピリチュアルな面で病み、こころの病を作り出しているようです。何とかしなければ。