紳也特急 164号

~今月のテーマ『現場にいても見えない被災』~

●『愛の反対は無関心』
○『広くて狭い陸前高田市』
●『平地が少ない大船渡市』
○『平地が細く奥深い女川町』
●『映像が伝えないこと』
○『人がいない光景』
●『瓦礫の中で遊ぶ子どもたち』
○『誰もいなくなった仙台市荒浜地区』
●『はまってかだる必要性』

今回の写真は以下で見てください
http://goo.gl/lP40S

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●『愛の反対は無関心』
 最近、朝日新聞のコマーシャルで繰り返し流されているのが「愛の反対は憎しみではなく無関心だともいう」というフレーズです。「愛の反対は無関心」という言葉を最初に言ったのがマザーテレサと聞いていたのでそのことに触れずに紹介するのはいかがなものと思いつつ、「無関心」という言葉を聞くとつい東日本大震災の被災地への世間の「無関心」を思い出しています。
 震災から丸2年が経過し、被災地の復興はそれなりに進んでいる所もあれば、まだまだのところが多々あります。岩手県陸前高田市と宮城県女川町に入り続けていますが、私を陸前高田市に引っ張ってくれた佐々木亮平さんはより積極的に陸前高田市への関わりを深めるため、3年前に家まで建てて転職した秋田の大学の職を辞して岩手県内に勤務することになりました。「2年も経ったのでこれからは状況を一番わかっている現場が頑張ってください」という雰囲気が世間に広がっているようですが、現地だけでこの状況を乗り越えるのはすごくつらいことです。
 私自身も被災地での活動がこのままでいいのかというジレンマを抱えながらも、この状況をシェアできる人が現地以外には少ない中で、3年目に突入するに当たって少し違った視点で被災地を見る必要性を感じていました。いつもの会議や打ち合わせ、講演、ラジオ番組といったスケジュール満載の被災地入りではなく、他の被災地の状況を見たり、話しを聞いたりするため岩手県大船渡市から宮城県山元町までを3日間かけて訪ねてきました。そこで実感させられたのが、自分自身が被災地に入っていながら、他の被災地の実情が見えていなかったことでした。そこで今回のテーマを「現場にいても見えない被災」としました。

『現場にいても見えない被災』

○『広くて狭い陸前高田市』
 陸前高田市は戸羽太市長が積極的に全国各地を飛び回り、マスコミに出て陸前高田市に関心を持ってくださいと訴え続けているため、市庁舎が解体されることや、奇跡の一本松が復元されたものの枝振りが震災後の状態とは異なるといった報道が繰り返されています。それらを見つつ、毎月陸前高田市の市民、関係者、市役所職員などと様々な議論を重ねてきましたが、よくよく考えると市内の被災状況や復興状況を見る時間はほとんどありませんでした。
 あらためて一本松近辺を含めて海岸線を見て回ると地盤沈下で建物が浮き上がった状態や防潮堤が土台ごと倒されたまま放置されていました。列車が走っていたであろう線路も寸断され、家があったところも土台だけになっていました。そこから山側を見ると仮設住宅が立ち並び、少し山側に車を走らせると地元で有名なMaiyaというスーパーが店舗を構え、きれいな診療所も建っていました。陸前高田市に行かれる方にはぜひ箱根山の展望台から広田半島方面を見てください。広田半島を大船渡側と陸前高田側の両方から津波が押し寄せ、ドラゴンレール大船渡線が走る平地を飲み込んだ状況がくっきり残っています。と同時に、そのすぐ隣では人々がいま、生活を営んでいる場がありました。

●『平地が少ない大船渡市』
 すぐ隣の大船渡市では陸前?田市との大きな違いに気付かされました。大船渡市は海岸から山までの距離が短く、海岸沿いの建物は被災しているものの、少し高い所にある隣近所の家は被災しませんでした。昼食を食べた店に置いてあった地元紙の気仙2市の被害者(死者、行方不明者)数によると大船渡市は420人に対して、陸前高田市は1,773人と大きく違うのは地形によるものが大きく、この差は同じ被災者でも、地区全体で避難を強いられた地域と、地区の一部の人たちだけが避難している地域の差となっていました。

○『平地が細く奥深い女川町』
 女川町は震災前に10,014人だった人口の内、827名が亡くなり、4,411棟の一般家屋が被災しました。このような被害になったのは、女川町が複雑に入り組んだ地形で、その狭い平地部分に多くの人が生活し、近くに山があるものの、地形の影響で押し寄せた津波が折り重なるように14.8mの津波になったためです。仮設住宅を建てる場所が少ないため、隣接する石巻市に仮設住宅を建設せざるを得ませんでしたが、ある意味大変狭い地域に、それも復興が日々感じられる圏域に多くの人が住んでいるのだと改めて感じました。

●『映像が伝えないこと』
 宮城県気仙沼市のJR大船渡線鹿折唐桑駅前に今でも撤去されずに置いてある陸地に船が打ち上げられています。打ち上げられた第十八共徳丸の周りには土台だけが残った建物があるだけです。その周りにあったはずの建物は土台を残してほぼすべて波に洗われてしまいました。今でも一台の車が船の下敷きになったままでした。
 南三陸町の防災対策庁舎で職員の方が犠牲になった話は今や鉄骨がむき出し状態になったままの建物が無言でわれわれに津波についての警鐘を鳴らしています。現地に立ってみると、その庁舎を取り囲む高台に無傷で残っている建物と対照的な光景でした。
 どちらも確かに津波の威力と備える重要性を伝えるには強烈なインパクトがありますが、一方で今の被災者の生活の、思いの現状を伝えるメッセージ性がないことをあらためて思い知らされました。

○『人がいない光景』
 海岸線を南下すると、津波ですべての建物が流失し、人っ子一人いない地区が点在していました。石巻市と合併した雄勝町の旧中心部を通った時は本当にショックでした。雄勝湾や川沿いにあった建物すべてが津波にさらわれた結果、人が暮らしている建物が全く目に入らず、人気を感じるのは工事関係者だけでした。それまで見てきた被災地では、少し高台になっている所には残った建物の中に人が暮らしていたのですが、それが全くない状況でした。生活の場が根こそぎ失われていました。
 そんな中で一軒、手打ちそば「てらっぱだげ」というお店があったので入った所、素晴らしく美味しいおそばでした。もともと雄勝で店を構えていたそうですが、多くの応援を得て再オープンにこぎつけたそうです。ぜひ近くを通ったら立ち寄ってみてください。

●『瓦礫の中で遊ぶ子どもたち』
 東松島市も甚大な被害にあったのですが、仙石線野蒜駅の近くにはガラスが割れたままの建物が残っていました。線路を隔てた家は修理をして住んでおられるのですが、そこの子どもたちは近くの護岸が崩れた川沿いで子どもたちが無邪気に遊んでいました。以前は多くの子どもたちでにぎわっていたのでしょうが、友達の多くが野蒜地区を離れる中、遊ぶ環境が整備されていない子どもたちが不憫でした。ある程度の数が集まった仮設住宅などでは地区のリーダー、自治会長などを選出し、その人を中心に行政のみならず、いろんなところに掛け合うのでしょうが、周囲を見渡しても数件という状況では、住んでいる人たちの声が届かないのも無理なからぬことだと思いました。

○『誰もいなくなった仙台市荒浜地区』
 仙台市若林区の道を北から仙台空港方面に向かって南下すると、4階建ての荒浜小学校の校舎が目に入ります。しかし、その周囲にあったはずの建物は土台を残してほとんど残っていませんでした。被害の甚大さはもとより、ここで生活していたはずの人たちが住み慣れた地を離れ、どのような思いで生活し、将来設計をどう考えておられるのかと思うと何ともやるせない気持ちになりました。そんなことを考えていると、すぐ南にある仙台空港からは飛行機が次々と飛び立っていました。

●『はまってかだる必要性』
 陸前高田市の復興状況も、女川町の復興状況も決して満足できるものではありませんが、被災地では一人ひとりができることを一所懸命やっておられます。もちろん、石巻市や仙台市の職員を含め、多くの方々が一人ひとりの被災者の方をいろんな側面から支援されています。できることを一つずつ積み上げ続けることが大切だと改めて思いましたが、一方で時には違う被災地にお邪魔し、一人ひとりが目指すべき方向性を再確認する必要があると痛感しました。
 というのも、先日、神戸市から仙台市若林区に派遣になっていた保健師さん二人が陸前高田市を訪ねてくださったにもかかわらず、若林区の状況がわかっていなかった私はせっかくの交流の機会をみすみす活かすことができませんでした。
 当たり前のことと思われるかもしれませんが、今回の経験を活かし、改めて陸前?田市や女川町で次の取り組みを推進したいと思いました。
(1)子どもたちが、より多くの仲間と思いっきり遊べる、安心、安全な環境整備
(2)避難生活であっても居場所と感じられる環境整備
(3)こんな未来の居場所をつくりたいと語り合う場づくり
 陸前高田市で始まった「はまってけらいん かだってけらいん」運動こそ、被災地に関わっている私を含めた一人ひとりに大事だとあらためて反省させられました。はまって(集まって)かだる(語る)ことでそれまで気付かなかったことを気づかせれもらえればと思っています。これからもぜひ被災地にも関心を持ち続けてください。そして被災地に関わっている人に声をかけ続けてください。よろしくお願いします。