紳也特急 165号

~今月のテーマ『パトが教えてくれたこと』~

●『考えてもいなかったこと』
○『生きる力』
●『1994年1月29日』
○『HIVと過ごした四半世紀の意味』
●『検査は自分のためではない』
○『ゲイとは』
●『HIVと長く、共に生きることの意味』
○『「死」とは』

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●『考えてもいなかったこと』
 人は様々な経験をします。でも経験したくないものの一つが別れ、それも死別です。東日本大震災では予想もしなかった津波によって数多の、突然の死別がありました。いまでも、というか2年経った今だからこそ多くの人たちが突然襲った別れに苦しんでおられます。そのような方々と毎月お会いしていても人間は自分の身に別れが起こらないと身近に感じられない、どこか他人事ですませてしまうところがあります。私がそうでした。
 4月15日、携帯の着信を見ると「パト」からの発信でした。
 パトリック・ボンマリート(47歳:1965年10月12日生まれ。年齢がすぐわかるのは自分より10歳若いから。誕生日がすぐ言えるのもトークでいつも聞いていたから)。スペイン系アメリカ人。HIVポジティヴ。クラブDJ、サウンドプロデューサー、ソムリエ等をこなす万能人間。岩室紳也の友人、仲間、そして患者。通称「パト」。
 そのパトは最近、「お金がない」とか「膝の調子が悪い」といった状態だったのでそんなことかなと思って出たら、ヤマト君が電話の向こうに。ヤマト君はパトのパートナーで、パトの外来通院だけではなく、講演会にも一緒に来てくれていたのでよく知っていました。その彼の開口一番のメッセージに驚愕しました。
 「岩室先生、パトが亡くなりました」
 20年来の付き合いのパトが亡くなった。自分の心に浮かんだのが「どうして」でもない。「パトが死んだ」という事実だけでした。正直なところあまりにも突然の、予期しない連絡に返す言葉がありませんでした。でもどこかで「HIVってこういうことがあるんだよね」と自分に言い聞かせていました。20年近い付き合い。HIV/AIDS普及啓発の同志、というか師匠のような存在でした。その彼がもういない。自分で言うのもおかしいかもしれませんが、その彼と組んだ天下一品のトークがもうできない。全身から力が抜けていきました。その知らせをもらってから2週間余経っても事実は変わりません。むしろ重くのしかかってくるだけです。今月のテーマはこれしかありません。「パトが教えてくれたこと」

『パトが教えてくれたこと』

○『生きる力』
 人が死ぬのは当たり前のこと。パトもよく講演会、トークで言っていました。「講演会」を頼まれても、やっているのは二人の「トーク」。でもこれがどんな講演会よりも聴衆を巻き込み、心に響くようでした。何とパトが患者として長年通院していた厚木市立病院には二人のトークを高校生の時に聞いて看護師になった人が勤めています。
 「この会場にいる人で死なない人はいない。僕もいずれ死ぬ。でも今はHIVで死ぬより、交通事故とか他のことで死ぬ可能性の方が高い」がパトの口癖。実際、HIVに感染しても薬がそれなりに効くようになり、免疫力(CD4)もいろんな合併症が出ない程度までは回復するようになりました。しかし、病気の状態がたとえ良くても、薬を飲み続け、言葉にできないストレスと向き合い続けることは想像を絶することです。被災地でも2年経った今だからこそ、いろんな感情の蓄積が一気に噴出しています。HIVは感染していることから来るストレスだけではなく、薬の副作用も、そしてHIVが体の中にいるだけでいろんな問題が起こることもわかってきました。
 理屈では分かっていても、人はいつか死ぬと覚悟はしていても、人間という存在はやはり勝手なもので、あんたに死なれたら困る。パトのバカ。何で死んだのだ。そんな思いです。

●『1994年1月29日』
 パトと出会ったのは19年前の1994年1月29日。きっかけをつくってくれたのがスマトラの津波で亡くなった当時横浜市職員の樋浦さん。1994年と言えば横浜で第10回国際エイズ学会が開催されることになったものの、日本中がエイズパニックの状態でした。いろんな人「握手では感染しません」とか、「差別してはいけません」といったメッセージを訴えていました。しかし、樋浦さんはちょっと違う視点で、HIV/AIDSは若者の問題としてみんなが考えられるよう、SAY NETWORKという学生グループを立ち上げ、今でも親しくさせてもらっている坪井勇蔵さんたち学生と岩室紳也をコラボさせてくれました。この学生さんたちが私を「コンドームの達人」と名付けてくれ、それ以来、私の愛称にさせてもらっています。
 当時38歳だった岩室紳也はHIV/AIDSのことをどう思っていたか。HIVに感染しないためにはノーセックスかコンドーム。ノーコンドームを選択するなら二人で検査。シンプルな発想でした。だから差別するのは変じゃないの。いいエイズ(薬害被害)と悪いエイズ(性感染)というのも変で、国の責任(薬害被害者)と自己責任(性感染)と思っていました。もちろん、自己責任は多くの病気(食べ過ぎの糖尿病、検診を受けない末期がん、など)でもよくあることなので、医者として診療をするのもこれまた当たり前のこと。
 そんな思いの岩室は樋浦さんが仕掛けたハマラジ(FM横浜)の深夜番組でパトと初対面。パトは自分がHIVに感染した日(1988年10月12日)を覚えている上に、何とその日は彼の誕生日。パートナーがHIVを持っていることは知っていた。でも自分のchoice(選択)でコンドームを着けたセックスの結果コンドームが破れてHIVに感染。反省はするけど、自分の選択なので後悔はしていないとのことだった。すごい。
 彼のFacebookに載っている「好きな言葉」。
 ”It Is What it is.”
  “When one wants to do something there is a 3 step process to insure that one never regrets one’s decision.
  1. Think about it.
  2. Decide on course of action.
  3. Take responsibility for the outcome (good or bad)”
 日本語が得意な彼は、「僕の感染は自業自得。でも後悔はしない。自分が選んだことだから」と話してくれたのを聞き「その通り」と思いました。
 もちろんこのやり取りはすごくインパクトがあったのですが、その後の顛末、岩室紳也のパニックが私のHIV/AIDSとの関わりをより強めてくれました。この原稿を書くに当たり紳也特急でその顛末を紹介したはずだが、とバックナンバーをチェックしたら、何と紳也特急の記念すべき第1号で紹介していました。
 http://archive.mag2.com/0000016598/00000000000000000.html
 パトとの出会いが自分の原点だったと改めて思い知らされました。そうそう。この日にコンドームの達人講座に欠かせない包茎の模型を出したら、パトがすかさず「Champion!」と叫んだのが「チャンピオン君」命名の由来です。

○『HIVと過ごした四半世紀の意味』
 パトはHIVに感染してから24年6ヶ月と3日、HIVと共に生きてきました。岩室紳也がパトと出会ったのは彼が感染した6年後。まだ薬もAZTしかなく、私自身もHIV/AIDSの診療をしていませんでした。そのパトが「日本の医者は嫌いだ。この薬を飲めと説明もなく押し付ける。岩室先生が診てよ」と言ってきたので、「使う薬はAZTしかないし、ま、いいか」というのりで診療をはじめ、気が付けばこれまで111人の診療に関わってきました。パトの初診から数えても19年余、随分長い時間を一緒に過ごしたものです。しかし、19年という時間はいろんなことを教えてくれました。

●『検査は自分のためではない』
 よく「エイズ検査を受けましょう」というのを聞きますが、当初から私はこの呼びかけに疑問を感じていました。自己責任という観点から言えば、検査を受けるかうけないかはその人の責任であり、また勝手でもあります。もちろん知識がない人に呼び掛けることは大事ですが、最後の決断はその人の責任です。そう思っていた私にパトは、「みんなが検査を受ければ、どれだけHIV感染が広がっているかがわかり、国も効果的な対策が立てられる」と目からうろこの発想を教えてくれました。自分のためではなく、みんなのために。これはなかなか日本人が持てない発想でした。

○『ゲイとは』
 HIV/AIDSの話をする際にセクシュアリティへの理解を進めることが不可欠。しかし、理屈で説明されても感情的に理解できないと、本当の理解にはなりません。パトとのトークはいつも私に新鮮な驚き、元気、勇気をくれました。聴いてくれている人も元気にしていたのは、パトの死をjaidsというMLで報告してくださった広島の高田昇先生の一言、「『岩室先生と、パトちゃんのトークショー』は、ある意味新鮮で、また勇気を受け取ったように記憶しています」にも表れていました。パト、やっていてよかったね。
 そのトークの中で印象に残っているのが、彼のお父さんが彼がゲイだと見抜いた時のやりとりでした。お父さんが「オレはゲイはわからないけど、お前は俺の愛する息子だ」と言って、陰口をたたく人たちを一蹴してくれたとのことでした。「その通り。岩室も男が好きなパトがわからない?」と振ったら、「ま、先生は趣味じゃないから」と切り返され、何となくすっきりというか「そうなんだ」と思っていました。

●『HIVと長く、共に生きることの意味』
 知り合った時に28歳というそれこそ元気バリバリのパトでしたが、47歳のパトはやはりそれなりに中年になっていました。歳をとると誰しも体がいろいろと痛んできます。私も57歳になって膝が痛くなったり、筋力が衰えたりしているのを実感します。ただ、最近わかってきたことはHIVに感染していることやその治療で、骨粗しょう症といったことが出やすくなるということでした。もちろん副作用や合併症が明らかになれば医者はその事象への対処法を考えますが、ある意味HIVと共に生きる人たちの先頭を走っていたパトは、未知の副作用や合併症の情報発信者でもありました。

○『「死」とは』
 1994年に知り合い、いろんなところでトークを繰り広げるようになった彼の口から出続けたのが「2000年を見届けたい」でした。「死は怖くない」が口癖でしたが、目標を常に持ち続け、頑張り続けていたパト。目立つのが、主役になるのが大好きだったパト。最後に一緒に仕事をしたのが2012年12月3日の山梨大学でのトークでした。山梨県主催で、山梨大学や近隣の学生さんを前に、パトは痛い膝を抱えつつ、杖を突きながら電車に揺られて来てくれました。こんな姿で大丈夫と思うほどでしたが、いざトークが始まると別人のように元気に。彼ももっと人前で話がしたかったことだと思います。でも彼の体は残念ながら誰にも、パト自身にも聞こえない悲鳴を上げていたのでしょうね。
 彼が亡くなった今、彼の「死」はもちろん悲しいことですが、それ以上に彼の「生」に元気をもらっていた自分に気付かされています。何のために生きているのか。生きるためではなく、何かをするために。何かを楽しむために。誰かの役に立つために。生きることの意味を僕に教えてくれたパト。パトの死は改めてパトの生を実感させてくれています。
 RIP(Rest in peace)

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┃ パトリックのお別れ会のお知らせ
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DISCO BABY FINAL
~ Tribute to DJ PATRICK Memorial Party ~

日時:2013/5/6 17:00?24:00
場所:東京都渋谷区渋谷3-26-16
   Tel:03-3486-6861
   amate-raxi(アマテラグジイ)
   http://www.amrax.jp/access/
   \1500/1D

岩室は17:00~19:00あたりいる予定です。