紳也特急 208号

~今月のテーマ『組織の大きな声、個人の小さな声』~

●『生徒の感想』
○『日本のマスコミとトランプ勝利』
●『不登校は自分の失敗隠し?』
○『「原発避難いじめ」で本質を隠すな』
●『いじめにおける学校の役割とは』
○『誰が通報するか』
●『アクティヴラーニングの弊害』
○『「性産業の非犯罪化」という発想に学ぶ』

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●『生徒の感想』
 僕は初の人とするとき、ゴムをつけないくせがあるので、今回の講習を経て、ちゃんとゴムをつけようと思いました。生でしても外に出せばいいやって思いだったので、これからは面倒くさがらずに買いに行こうと思います。グッパイ!生セックス! ハロー!コンドーム!(高2 男子))
 「ゲイ・レズビアン=普通じゃない」という私の今までの偏見を、少し見方を、視点を変えて話を聞けた。この時間で偏見を消すことはできなかったのは事実だが、「偏見という偏見」から「偏見に近いような偏見じゃないもの」に変わった気はした。(高1 女子)
 男子のためにも女子のためにもなったと思います(高2 女子)
 先生が去年「床オナ禁止」と言ってくれたおかげで、今では右手の青春をしています(高2 男子)
 僕は2次元が好きです。なぜなら、現実の女の子よりも2次元の女の子の方が可愛いからです。僕が現実より2次元の方が好きになったのは高1からです。その前に5回ぐらい告白して、百発百中でフラれてきました。そして高1になった時、現実の女性に希望を持っても意味ないと思い始めました。でも、岩室先生の言葉を聞いて、やはりこのまま現実の女性から離れてしまってはよくないと思いました。僕を目覚めさせてくれてありがとうございました。(高1男子)

 思わずどの感想にも「いいね!」としたくなりました。何が「いいね!」と感じたかと言えば、一人ひとりが自分の言葉で、本音で語っていると感じたからです。一方で組織の声や考え方は時として「変!!!」、「よくないね!」と言いたくなることがあります。そこで今月のテーマを「組織の大きな声、個人の小さな声」としました。

『組織の大きな声、個人の小さな声』

○『日本のマスコミとトランプ勝利』
 トランプ次期アメリカ大統領の勝利を日本のマスコミは驚きをもって報道し、「あり得ない」と言い続けています。しかし、丁寧に報道を見ていた人は、「十分あり得ること」、「これからの世界の動き」ととらえているのではないでしょうか。事実、トランプ氏の勝利を予言していたジャーナリストの木村太郎さんが大統領選の前に言っていたことは、他のどのマスコミの報道よりも説得力がありました。しかし、木村太郎さんの言葉はスポーツ新聞以外ではその後完全に無視されているところが日本です。これは大きな組織になればなるほど自分たちの失敗、見通しの甘さ、未熟さに対して、「ごめんなさい」や「不勉強でした」と言えず、そこを指摘されないように全部が「なかったことにする」という、まさしく今の日本社会ではないでしょうか。
 木村太郎さんの言葉で印象的だったのが、「日本のマスコミは現地に入らず、アメリカの大新聞の記事を鵜呑みにしているだけ」でした。これは単にアメリカに乗り込んでいないというだけではなく、仮に乗り込んだとしても、それこそKY、空気が読めないからだと思います。

●『不登校は自分の失敗隠し?』
 先日お邪魔した大学で学生さんと懇談をしていた時に、学生さんで不登校経験者の一人が、「失敗した自分を見られたくなかったから不登校になった」という話をしてくれました。その学生さんと、自分たちの報道の失敗をなかったことにするマスコミの姿がだぶってしまいました。
 個人が自分の失敗を隠すための手っ取り早い方法は、その失敗を指摘する人の前から姿を消すことです。不登校や人間関係の断絶という方法です。失敗を指摘する人、自分で勝手に「この人は指摘する」と思っている人の目の前から消え去ることで、一見、自分の、個人の失敗を回避することができます。学校であれば不登校になる。社会に出ていた時であれば、引きこもる。会社にいる時であれば新型うつで出社しない。最悪は自殺するという方法を選択する。
 実は日本だけではなくアメリカのマスコミが今回のトランプ氏の当選を未だに「あり得ない」と言い続けられているのは、他社も同じ穴のむじなで、気が付けば膨大な組織群が失敗隠しに奔走しているからです。すなわち、イマドキ社会は個人も組織も「間違っていました」と言えない社会になっているようです。

○『「原発避難いじめ」で本質を隠すな』
 「原発避難いじめ」ということがマスコミで話題になっていますが、ここでも本質を議論しないマスコミの姿が見て取れます。福島から自主避難をしている人たちに対して、「原発というものを押し付け、その安全性についてはまったく無関心のまま、結果的にこのようなとんでもない事故を起こし、にもかかわらず原発再稼働という方向に行っている政治家を引きずりおろせず、本当に申し訳ありません」と言わず、原発については原発再稼働を推進する一方で、今回の問題を「いじめ問題」にすり替えています。さらに言えば、この問題は「いじめ」ではなく「犯罪」なのにそのことは一切報道しません。そして学校を悪者にしていますが、今の学校はこのマスコミに反論することは許されません。そこで、これまで性教育ではさんざん学校現場とやりあってきましたが、今回は「学校の役割」を擁護する視点で敢えて書かせていただきます。

●『いじめにおける学校の役割とは』
 いじめ防止対策推進法の中に「いじめに対する措置」第23条6に「いじめが犯罪行為として取り扱われるべきものであると認めるときは所轄警察署と連携してこれに対処する」と書かれているのをご存知でしょうか。今回の事件では100万円を超える「恐喝」があったにもかかわらず、学校側はこの法律に基づいた判断を求められたとき、「法律と照らし合わせて、加害生徒に対する教育的な配慮を鑑み、警察への通報はしなかった」という判断をしたとしても学校側を責められません。学校というところは「犯罪者をつくる」のではなく「一人ひとりの生きる力をどう育てるか」という教育的な視点に常に立っており、それを表しているのが法律の文言です。ちなみに医者は違法薬物を使っている患者さんからカミングアウトを受けても警察に通報しませんし、通報する義務もありません。なぜなら、薬物依存という病気を治すことが医者の仕事であり、通報することでその人から「医療」、「治療」の機会を奪うことになるからです。

○『誰が通報するか』
 ただ、悪いものは悪い。お金を脅し取ったら、それは子どもであっても、額が少なくても、場所がどこであっても、立派な恐喝であり、犯罪行為です。その犯罪者に対して、学校はあくまでも警察に通報するのではないスタンスで犯罪行為に立ち向かっているのです。だからこそ、「警察に通報すべき」という発想を持った人が警察に通報すればいいのです。しかし、そうなると「関わりたくない」という無関心社会がネックになるのです。このことを理解した上で、保護者が警察に通報することを考えたら、学校に相談することなく、通報するしかありません。
 余談ですが、最近の子どもで「110番」を知らない子が増えています。携帯、スマホを持っているにも関わらず。何故かわかりますか。友達と、仲間と、大人とそのような話をしないからです。もっと仲間でこのような話題で盛り上がってもらいたいものです。

●『アクティヴラーニングの弊害』
 講演を頼まれた中学校で、「ぜひグループワークを取り入れてください」と言われました。私はきっぱり「お断りします」と言いました。実は、今の日本で、学校のみならず、様々な分野でグループワーク、ワールドカフェ、KJ法といった「みんなで情報共有を、議論を」というのが流行りです。しかし、「どこか変?」と常々思っていました。
 もちろんこれらの手法が有効な場合も少なくないのですが、これらの手法が有効になるためには、何より参加者が率直に意見を共有できるための環境が大前提となりますし、それに加えて、他人と異なる意見が言える、言っても責められない環境、関係性が不可欠です。しかし、いまの日本で自分の意見さえも言えない、ましてや他人と違うことを口に出せない、自分の失敗が語れないという人が、マスコミが多いのではないでしょうか。
 グループワークを取り入れたいという学校で講演するテーマが「HIV/AIDS」です。偏見差別をしないために、自分がHIVに感染しないために、といったグループワークをしたところで、私の話を聞き、ちゃんと理解してくれた生徒であれば「知識は役に立たないということがわかった」。「『もっとみんなで話すようにしたい』というのはきれいごとで、実際にこいつとしゃべりたくないという奴も多い」ということをグループワークの中で言えないよね」、といったグループワークになるならうれしいのですが・・・。おそらく、偏見差別をしないためには正しく理解することが大事です。感染しないためにはコンドームを正しく使用し、心配なら検査を受けることが大事だと思います。このようなまとめになるのではないでしょうか。グループワークを行った結果、せっかく自分ごと意識になっている生徒さんも、気が付けば周りの圧力、ピア(仲間の)プレッシャーの中で他人ごと意識を再燃させてしまうことになると思います。そして、その後の私の講評は「残念ながら私の話は君たちに響いていないようですね」となる???意地悪をしたくもないし、結果が見えているので、とにかくグループワークはお断りしました。

○『「性産業の非犯罪化」という発想に学ぶ』
 先月の日本エイズ学会で心に残った言葉が「性産業の非犯罪化」でした。犯罪。法律が決めた「ダメ絶対」があればあるほど、気が付けば多くの人の他人ごと意識を助長し、真に求められている課題が、対策が見えなくなります。
 繰り返される学生によるレイプ事件。こう書けば某大学医学部の5年生が起こしたとされる事件を思い浮かべるでしょう。もしこの事件が事実であれば、裁判と学校の規定に沿った裁きを受けるだけです。一方で男であればだれだってこのような罪を犯す可能性があります。幸い、今のところ私は加害者になっていませんが、だからこそ、犯罪は犯罪として処罰される必要性があることは理解している一方で、「犯罪予防は健康づくり」という視点で考えることの重要性を訴え続けています。すなわち、こころが健康な人は罪を犯さないという視点です。逆に集団心理でいつまでも自分が言っていることが正しいと言い続けている組織はこころが病んでいるのかもしれません。どう思われますか。