紳也特急 222号

~今月のテーマ『「どう生きるか」を決めるのは何?』~

●『君たちはどう生きるか』
○『自立は依存先を増やすこと』
●『岩室紳也はどう生きているか』
○『ライバルにドーピング』
●『友達がライバル』
○『失敗に学べる環境は作れない』
●『聞く力がない大人たち』

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●『君たちはどう生きるか』
 ベストセラーになっている本書の初版は1937年。62歳になった岩室紳也が生まれる18年前に発刊されています。著者の吉野源三郎さんは児童文学者と紹介されていますが、一方で「世界」の編集長を務めた方。「世界」と言えば、高校生の頃に粋がって読んでいたのを思い出します。
 今回読んだ「君たちはどう生きるか」は漫画化されたものではなく、単行本の方でした。この作品は、児童文学といったイメージでもなければ、説教臭い、上から目線のものでもありません。どちらかと言うと、淡々とその時代を生きた人たちを描いているのですが、実際には「よく、あの時代にこんな本が出版されたね」という内容です。
 感想を一言でいうと、「人は自分や他人の失敗を含めた様々な経験に学び、経験していないことは他人ごと」。そのような経験を教えてくれる環境が大事だけど、そのような経験が得られる場面は昔のように多くはないどころか、ますます減少の一途をたどっている。その結果、一人ひとりが弱くなっているのだと改めて感じました。
 別冊NHK100分de名著「読書の学校 池上彰 特別授業 『君たちはどう生きるか』」の解説に「ぼくたちは、自分で自分を決める力を持っている。誤りを犯すこともある。しかし、誤りから立ち直ることもできるのだ」と書かれていますが、「?????」と思ったので、今月のテーマを「『どう生きるか』を決めるのは何?」としました。

『「どう生きるか」を決めるのは何?』

○『自立は依存先を増やすこと』
 改めて熊谷晋一郎先生のこの言葉を噛み締めています。「依存」を広辞苑で調べると「他のものをたよりとして存在すること」とあり、「親に依存した暮し」を例として挙げています。しかし、よくよく考えてみると、親だけではなく、農家、漁師、電力会社をはじめ、人はいろんな人に、物に、組織に依存しています。スポーツ選手も、同じ競技をする人がいなければ、そもそもその競技自体が存在しないことになります。岩室紳也も患者さんがいなければ診療はできないし、聞きたい人がいなければ講演もできません。もちろんこのメルマガも読んでくれる人がいるから成り立っています。

●『岩室紳也はどう生きているか』
 岩室紳也は「どういきているか」ではなく、岩室紳也はいろんな人に「生かしていただいている」だけでした。ただ、いろんな人と人の間で生きている「人間」という存在であるため、常に周りの人たちの間で行き違いや軋轢、トラブルが起こります。問題はそのような時に、どうやってそのトラブルを乗り越えるか、乗り越えられるかが「どう生きるか」ということのようです。
 先日、若い保健師さんに「岩室先生はどうして若い人の気持ちがわかるのですか」と聞かれました。いろんな相談だけではなく、私の話への反応や感想と真剣に向き合っていれば、相手が何を考えているかは見えているようです。たとえ相手が若くても、わからないなりに「なぜ、この人はこういう悩みを持ってしまうのだろうか」ということを考え続けている内に、気が付けば何となく若い人の気持ちがわかっているのかなと思います。

○『ライバルにドーピング』
 カヌー競技でライバルにドーピングをした事件がありました。それを受け、読売新聞の2018年1月11日の社説に、「スポーツに取り組む子供たちに、指導者がフェアプレーの重要性を説くことは大切だが、それ以前に、人としてのモラルをきちんと教えなければならない」と書かれていました。「どう教えればいいのか」と読売新聞に問い合わせましたが返事はありませんでした。
 海外ではこのような事件は当たり前とのことですが、それもそのはず。外国ではスポーツが出世の手段で、他人を蹴落とすために何だってやる人がいても不思議ではありません。これまでの日本ではスポーツは必ずしも出世の手段ではなかったのですが、最近は状況が変わってきているようです。

●『友達がライバル』
 高校生が仲間同士でエロ話をしなくなって久しく、体育系の部活の部室にエロ本が山積みになっていたというのは太古の昔の話です。ホンマでっかTVで、「コンドームを知らない高校生がいる」という話をしたのは既に3年前の話ですが、この状況がますます拡大しています。
 池上彰さんの指摘に少し言葉を足すと次のようになると思います。
 「ぼくたちは、自分で自分を決める力を持っているが、自分だけで決めるととんでもない誤りを犯すことが多々ある。だからこそ、『君たちはどう生きるか』に描かれているように、他人の、友達の誤り、失敗に学ぶことが不可欠だ。また、誤りから立ち直ることができるのも、他人の、友達の誤りや失敗を見せてもらうという経験があればこそである」と。
 でも、部活の仲間は競争相手、ライバルでしかない環境、関係性だと、お互い、相手に弱みを見せないようにし、それこそ「こいつはスマホにエロサイトをブックマークしているんだぜ」と変なことでからかわれたり、足を引っ張られたりしたくないという思いになるのでしょうか。
 トラブルに巻き込まれる生徒がいた時、正論好きな大人たちは「話あえる友がいたなら・・・・」と言います。しかし、そもそもそんな友達がいる人はトラブルに巻き込まれません。今は失敗体験、はずかしい体験を話せる友達が作りづらい世の中のようです。

○『失敗に学べる環境は作れない』
 昨年の12月28日の読売新聞の記事に次のようなものがありました。わいせつ教職員処分過去最多。再発防止追われる教委。愛知県の教育委員会は管理職の許可なく生徒からのメールやSNSでの連絡先を取得していないかをチェックしているとのことでした。
 メールやSNSは大変便利なツールですが、当然のことながらいろんな落とし穴があります。でも、上手に使っている人たちと、落とし穴にはまってしまう人の違いをもっと根っこのところまで検証すれば、大事な対策が何かが見えてきます。実際、性に関する相談を受ける時、直接会って話す外来だと生々しいやりとりがしづらいのに対して、メールだとずばり大事なところを確認することがしやすいし、回答する方も回答しやすいようです。
 このように個人のプライバシーが守られる環境があることは、逆にリアルな関係性の中でお互いの失敗や弱みを見せることがますます少なくなるため他人の失敗に学べない環境になっているとも言えます。中学校の教科書には「社会性はいろんな経験を積むことで育まれる」と書かれていますが、社会性、善悪の判断が育たない環境、社会になっているのだと改めて思いました。
 そして何が起こるか。ライバルにドーピング。女性が喜んでいると思って痴漢行為。高校生によるAVを模倣した性犯罪。誰でもよかったといった殺人事件。「どう教えるか」ではなく、「どのような環境があれば、他人の失敗に学び、自分が同じ失敗をしないようにできるか」を真剣に考えなければならない時代になっていると思いませんか。

●『聞く力がない大人たち』
 生徒や教師による性犯罪があった学校で講演をすることが少なくないのですが、そこで感じるのが「他人ごと意識」です。

 人は経験に学び、経験していないことは他人ごと

 この言葉をいつも大事にしたいと思っています。しかし、残念なことに、同僚や教え子に寄り添い、「なぜ、あんなことをしてしまったのか」と一緒になって考えようとする人が減ってきていないでしょうか。そのような学校での教師の感想を見ると岩室の講演を「過激」、「多くの子どもたちに聞かせる必要はない」と言い切っています。決して私に「どのような意図であのような話をされたのですか?」という質問をすることもないのが寂しいです。
 そのような人が「君たちはどう生きるか」を読んだらどのように思うのでしょうか。
 ま、他人のことはさておき、次なる犠牲者、加害者が出ないことを目指して、岩室紳也は今まで通り、講演し続けたいと思います。それが岩室紳也に宿命づけられた「生き方」なのだという信念を持って。