紳也特急 229号

~今月のテーマ『正解に押しつぶされる人々』~

●『ある保健室の先生とのやり取り』
○『アンガーマンジメント?』
●『怒り、イライラの原因』
○『怒り、イライラの乗り越え方』
●『正論遠ざける会議の作法』
○『「正解」を逆手利用する人たち』

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●『ある保健室の先生とのやり取り』
岩室:今の子たちは質問すること、答えを求めることには慣れているのですが、わからないことを仲間と共有すること、誰かに聞くことが苦手ではないですか。
保健室:リアルに高校生と付き合っているものとして理由を考え、生徒に聞いてみました。

・なんでも検索できる時代だからこそ、「わからない」ことは本人の努力不足だと思われる、と思って軽々しく口にできない
・ネットが発達した社会で育った人間として、自分の発言が周りに及ぼす影響を理解し過ぎて、不用意な発言をすることに無意識にブレーキをしてしまっている
・わからない、という負担感を共有出来る人間関係がそもそも出来ていない
・わからないことを誰かと共有することは、自分の弱みを見せたようで、彼らにとって痛みが伴う
・わからない、ということがあることを無意識でも認めたくない
・わからない、という自覚がそもそもない
・答えがない、わからないことを見ないふりできる
・答えがないことにそもそも興味がない
・答えが出ないのであれば、質問しても仕方がない
・答えのない質問を共有して、帰ってくる答えが自分に合っているとは限らない
・そもそも人とあまり話さない

保健室:それでも一対一で話せばしっかりと自分の意見を伝えてくれるので、会話ができないわけではありません。

「答え」という言葉のプレッシャーがすごいですね。と同時に「答え」に対するこだわりもすごいと思いませんか。「答え」には「間違い」の答えもあれば、「正解」もあります。しかし、ここで言われている「答え」は「正解」の方を指しています。人間の生き方に「正解」なんてないのに、「正解」があると信じ込まされ、それにつぶされているのが今の若者たちなのでしょうか。そこで今月のテーマを「正解に押しつぶされる人々」としました。

『正解に押しつぶされる人々』

○『アンガーマンジメント?』
この原稿を書いている時に、ある高校から依頼文が届きました。そこに生徒さんの状況を教えてくださるコメントがついていました。

SNSに関するトラブルが多く、指導をしても改善されない。
相手の許可なく写真をアップ。
友達同士で騙し合い、人間不信。
教室に入るのに時間がかかる。
すぐ他人に当たる。
こんな子には教師がアンガーマネジメントを指導。

思わず「アンガーマネジメント」をネットで検索すると「Anger Management」とのこと。英語圏育ちなので、angerはaとeを合わせた「ae」に始まるアエンギャーと発音するはず。ま、発音はどうでもいいけれど、そもそも怒りのマネージメント、イライラのコントロール方法を教師が教えなければならない本質的な理由が何かを考えさせられました。

●『怒り、イライラの原因』
そもそも、いろんな人と関わっているとイライラしませんか。「腹立つ~」と思うことっていっぱいありますよね。どんなに仲がいい人でも、ここは嫌い。ここは許せない。そう思うのが人と人の関係性で当たり前のこと。しかし、よくよく考えてみると、この「当たり前」ということがどれだけ多くの人に共有されているのでしょうか。
広辞苑に「当たり前」は(1)そうあるべきこと。(2)ごく普通であるさま。とあります。「そうあるべきこと=ごく普通であるさま」ではないはずです。
この矛盾こそが実は「当たり前」なのです。ところが、「そうあるべきこと=正解・正論=ごく普通であるさま」と理解している人が多くなっているように思います。
自分にとって「そうあるべきこと=正解・正論=ごく普通であるさま」ではない状況を他人が作り出している場合に怒りやイライラが生まれます。しかし、そのような状況、すなわち自分のこころの中に怒りやイライラが芽生えること自体、ある意味「ごく普通であるさま」ですし、それを乗り越えるしかありません。ただ、そこに「正解・正論」を置いてしまうと相手を認めたり、受け入れたりすることができず、結果として身動きがとれなくなり、押しつぶされてしまうのではないでしょうか。

○『怒り、イライラの乗り越え方』
怒りやイライラといった感情が芽生えるその都度、それらを表出している人を見たら、皆さんどう思いますか。大人げない。子どもか。ちょっと冷静に。と思いますよね。
日本アンガーマネジメント協会のサイトに「6秒間で怒りを可視化~感情的ではなく理性的に~」、「怒りのピークは6秒と言われており、その6秒間に絶対に行ってはいけないのは「反射的に言動をとること」です」というのが出ていました。確かに自分自身もイラッとしても自分を落ち着かせている時が少なからずあります。逆に、相手がイラッとしているけどその怒りの矛先を収められていないなと感じることもあります。こうやって自分自身のこころのコントロール方法を分析してもらうと面白いですが、「これを全員にやるの?」と思ってしまいました。
自分自身がいつ、どのようにして「怒り」や「イライラ」の乗り越え方を身に着けてきたのかわかりませんが、おそらくそれはいろんな人と関わる経験をしてきた結果です。だからこそ「人と人をつなぎ、つながれた関係性の中で一人ひとりが育つことを目指したい」と思っていろんなところで発言し続けています。しかし、そのやり方が逆に怒りやイライラを引き起こしていたのではないかと反省させられる記事がありました。

●『正論遠ざける会議の作法』
2018年8月29日の読売新聞「読み解く」の欄の記事です。行政が主催する会議で「本質についても議論してほしい」と「正論」を投げかけた役人が委員の一人から激しく叱責されたとのことでした。それを「正面からの議論を封じる妙な作法」と皮肉っているのですが、そもそも自分の意に沿わないことに対して、「切れる」ことでしか返せない、本質の議論ができない人たちがこの国を導いていることを自ら暴いてしまったようです。
逆の見方をすると、この方にはこの方なりの「正解」があり、それ以外は認められないと考えると「本質」が見えてきます。そしてこの方は、ご本人が理解できない、理解したくもない、自分が考えている「正解」が否定されかねない「本質の議論」から身を遠ざける方法として「切れる」ことしか反射的に思い浮かばなかったのでしょうね。この方はおそらく6秒待ってもだめだと思いませんか。
本質の議論というのは結果もなかなか見えませんし、「で、その議論をしても現実にできるの?」という話になります。「『人と人をつなぎ、つながれた関係性の中で一人ひとりが育つことを目指したい』なんてきれいごとを言うな。いま、できることをしなければだめだ」と私も激しく叱責される、というかそもそもそのような会議に呼ばれないことと思います。いやいや、実は呼ばれていた、というか、自分が会長をやっていた会議でこの方向性に持っていったら、行政がその会議をつぶしてくださいました。だから目先の対策だけが繰り返される日本になってしまうのです。おそらく学校では「道徳」の次は「アンガーマネジメント」の授業が行われ、「皆さん、6秒ですよ。わかりましたね」というのが徹底されるのでしょうか。

○『「正解」を逆手利用する人たち』
「暴力容認」などと言えば、「暴力を認めるなんて野蛮人」と叱られます。「暴力反対」というスローガンをかかげるのは本当に簡単です。正解です。正論です。でもこの正解を、正論を掲げた結果、18歳の一人の女子体操選手が選手生命をかけて戦うことになりました。一番大事なことは「本質の議論」をすることです。そしてもっと卑怯なことは、この「正解」、「正論」を振りかざして自分の想いを通し、他人を押しつぶそうとしている多くの大人たちです。
「暴力」。「いじめ」。「戦争」。「自殺」。「原発」。「基地」。どれもなくしたいものばかりです。でもなくなりません。だからこそ「正解探し」ではなく、「本質の議論」が求められているのです。でもそれができない大人たちは、実は冒頭に紹介した高校生たちと同じです。

・なんでも検索できる時代だからこそ、「わからない」ことは本人の努力不足だと思われる、と思って軽々しく口にできない
・ネットが発達した社会で育った人間として、自分の発言が周りに及ぼす影響を理解し過ぎて、不用意な発言をすることに無意識にブレーキをしてしまっている
・わからない、という負担感を共有出来る人間関係がそもそも出来ていない
・わからないことを誰かと共有することは、自分の弱みを見せたようで、彼らにとって痛みが伴う
・わからない、ということがあることを無意識でも認めたくない
・わからない、という自覚がそもそもない
・答えがない、わからないことを見ないふりできる
・答えがないことにそもそも興味がない
・答えが出ないのであれば、質問しても仕方がない
・答えのない質問を共有して、帰ってくる答えが自分に合っているとは限らない
・そもそも人とあまり話さない

大人も「わからない」を認め、そのことを人と話しませんか。でも、それって「めんどくさ」、ですよね。その私たちが日本を、子どもたちをつくっているのです。