紳也特急 23号

〜今月のテーマ『「清潔って何?」』〜

●『年をとると汚くなる?』
○『清潔って何?』
●『少女たちのパンツ?』
○『パンツをはかない女子高生』
●『他人は不潔?』
○『私にとっての清潔』
●『ドアの取っ手の方が自分のペニスより不潔』
○『感覚だけではなく、理屈も必要?』
●『人はそもそも不潔なもの』

◆CAIより今月のコラム
「予防啓発とは何か?」

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●『年をとると汚くなる?』
 おじさんくさい、ダサい、汚い。確かに若い人(というようになったらオジさんか)がそう話しているのを聞いて、そう言えば自分もそのような意識が無かったとはいえないと思います。しかし、自分が年をとってみると、どうして年をとると汚くなるのかが見えてきます。実は最近老眼が出始め、携帯電話の表示が見にくく、新聞も少し遠ざけて見てしまいます。そうすると鏡を見ていても実はそり残したヒゲ等が見えていないことに気がつかされます。ショック。でもこれが老いというものなのでしょう。気をつけないといけないですね。

○『清潔って何?』
 ここ3号は「感染症との共生」という視点で書いてみました。HIV、結核、O157、等々、様々な病原体がいろんなところにいます。そしてそれらを遠ざけることは不可能であり、どう上手に付き合うか、いたずらに怖がらない、遠ざけないということが大切だと理屈で力説したつもりでした。感染症とどう付き合うかという視点で小さい頃から「清潔」ということの重要性を教え、学校でも給食の前、トイレの後に手洗いを励行するように指導しています。ところが最近、「清潔」を感覚的にとらえているものの、実際には健康に影響が出そうなほど「不潔」にしている人や、逆に「無菌」を極端なほどに追い求めている人が多いことに驚かされています。そこで今月のテーマは「清潔って何?」としました。

●『少女たちのパンツ?』
 7月6日号の週刊朝日に「えっ!!少女たちがパンツをはきかえなくなった」という記事が掲載されました。記事の書き出しをそのまま転載(取材を受けたのでいいですよね)すると
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 埼玉県から渋谷に遊びにきていたユミちゃん(16)は平然と言い放った。「パンツ? はきかえるの面倒なときとかあるじゃん? あと、友達んちに泊まっているときとかは、あんまり替えない。あっ、でも、おりもの専用シート使ってるから汚くないよ」
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 このタイプの製品でもっとも売れている小林製薬の「サラサーティーコットン100」( http://www.kobayashi.co.jp/seihin/index.html )について調べてみると、宣伝文句のトップは「おしゃれな下着の黄ばみを防ぎ長持ちさせたいときに」でした。確かにこの製品を使っていればよごれは防げるのでいいのでしょうが、下着を2日以上着ることに違和感がないのは不思議ですね。私は中学から寮生活をしていましたが、下着とワイシャツだけは毎日着替えていました。でも、考えてみればズボンはそんなに頻繁に洗濯したわけではありません。

○『パンツをはかない女子高生』
 一方である養護教諭の先生から「彼氏にはくなと言われたからパンツははかない」という女子高生について相談されたことがあります。「どうして人はパンツをはくのか」と聞かれてもとっさに答えは出ません。しかし、パンツをはかずにズボンをはいてみるとその違和感たるもの、とても我慢ができるものではありませんでした(どうしてパンツをはいていなかったか? 答えは最後に)。感覚的なものと同時に、特に女性の場合はおりもの(帯下)もあり下着はその上に着る服の清潔のためにも大切ですよね。

●『他人は不潔?』
 この記事の中で思春期の電話相談を行っている精神科医の斎藤環氏は
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「清潔の定義が違う」と指摘し、こう分析する。「他人の痕跡がないものが清潔、他人が触ったものが不潔、というように、実は彼らなりの秩序がある。そこではウイルスやバイ菌の有無は関係ない。むしろ皮膚感覚としての清潔意識は高まっていると考えられるのではないでしょうか」
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とコメントされています。(もっとも私の取材も微妙に表現が違うのでこれを斎藤さんが一字一句こう話されたのではないと思います。)若い人たちの清潔意識に疑問を投げかける前に、自分達の清潔観を確認する必要があります。

○『私にとっての清潔』
 広辞苑によれば清潔とは「よごれがなくきれいなこと」とあります。私にとっての清潔とは、(1)見た目のきれいさ、(2)皮膚感覚としての清潔感、(3)土足の世界と、上履きの世界の違い、と思っています。見た目に汚い例としてワイシャツの襟首の汚れがあります。これは仕方がない部分ですが、毎日お風呂に入りワイシャツを替えている人ならそれほど目立ったよごれになりません。しかし、襟首が汚くても平気な人もいますがどうしてなのでしょうか。皮膚感覚で一番重視しているのが下着を毎日替えることです。特に入浴後に一日肌身につけていた下着を再度着た時の違和感は絶対に味わいたくないものです。土足で歩くところはすべて他人が多く利用する公衆便所とつながっていると感じてしまうので、電車で床に座っている若者を見ると和式の公衆便所の便器に直接座っているように思えてなりません。しかし、これは感覚というより理屈でそう思っているのでしょう。

●『ドアの取っ手の方が自分のペニスより不潔』
 理屈と感覚のギャップを考える上でトイレの後の手洗いが面白いと思います。多くの人はトイレの後に手を洗う習慣がありますが、女性や大便の場合はドアノブや水を流すレバー等いろんなところを触り、手が他人の細菌で汚染されるので手を洗うのは理屈に合います。しかし、男性が排尿だけした時に自分の服とせいぜいペニスしか触らないのなら自分の常在菌しか触れず、むしろ手を洗う際に多くの人の手垢がついた蛇口を触ることでかえって手が汚れます。この場合は理屈ではなく感覚的、習慣的に手洗いしているのでしょう。誰かが「でも、おしっこがつくと汚い」と言っていましたが、念のために尿は無菌です。

○『感覚だけではなく、理屈も必要?』
 確かに、不潔、清潔は個人的な感覚と生活習慣の中から培われるものでしょうが、感覚だけで行動してしまうと健康を害することも忘れてはなりません。若い世代がおりものシートを使って勝負パンツ(すぐにHできるようにはいている下着)をきれいにしているのはいいのですが、セックスの相手のペニスが清潔か(不潔だと女性は子宮ガンになる可能性がある)、相手が病気を持っていないか(見た目では病気の有無はわからない)、「私もおりものシートを使っているのであなたもコンドーム使って」というように理屈も少し入れた方がいいのではないでしょうか?

●『人はそもそも不潔なもの』
 人間の体は汗もかき、垢も出る、そして多くの病原体が住みついています。もともと不潔なものです。それを入浴、手洗い、おりものシート、等を使って少しは清潔にし、自分も他人も不愉快にならないように気をつけているはずです。清潔を追い求めている人が多くなっている一方で、パンツを替えない人が増えているのは一人ひとりの皮膚感覚が鈍感になっている証拠じゃないでしょうか。理屈だけ教えるのではなく感覚、センスを磨き直さないといけない?????
 だいたい、行きずりの人とセックスをすること自体、「フ・ケ・ツ」???

(パンツの答え:手術の際に汚してしまい、替えがなかったのでパンツなしでズボンのはきました)

◆CAI編集者より今月のコラム

「予防啓発とは何か?」

 予防啓発って何なんだろう? この問いは、僕にとっては難しい。今までいろんなNGOやお医者さん達が予防啓発を行ってきた。コンドームの付け方を教えたり、どんな性行為がリスクの高い行為なのかを講義したり。たしかに、それらの知識を知るのと知らないのでは、大きな違いだ。しかし最終的に、その知識をどのように使っていくのかは、ひとりひとりの問題なのだ。ある人が、「別に感染したっていいじゃん。それは俺自身の問題だから」と言ったとしよう。しかしそのことに対して予防啓発する人が言えるのは、「そんなこと言ってもね、感染すると薬を飲み続けるのも大変だし、自分の命は大切にしなくっちゃね」っていうありきたりの回答にとどまったままになってしまうのではないだろうか?
 しかし、僕は予防啓発に隠されている、もっと大きな意味に最近気がついた。それは、「エイズに対するイメージを変えていく」ということである。エイズは単にウイルスの病気であって、誰にでも感染の可能性があるという、当たり前の知識を知らせることが予防啓発なのだ。ある特定の人たち(例えば、性行動が活発な人とか、不道徳な人とか)が感染する病気ではないということを知らせていくこと。一般にはこのことを「正しい知識を伝える」というふうに言っているのだと思うが、ではこのような「正しい知識を伝え」なければいけないと、身をもって感じている人とは誰なのだろうか? もしかしたら、それは医者でもなく、マスコミでもなく、感染者自身なのかもしれない。
 僕自身が考える予防啓発に含まれる難しい問題とは、この「予防啓発」という言葉の中に、いろんな意味が詰め込まれすぎていて、感染者自身が本当に伝えたいメッセージというものが、見えにくくなっているのではないかということだ。感染者自身が自分の病気について、もっとまわりの人たちに理解して欲しいと思うとき、彼らは「エイズに対する悪いイメージというものを変えたい」と思うのではないだろうか。だから僕が思うのは、もっと感染者自身が親密に関われるような予防啓発が必要なのだと思う。彼ら自身がメッセージを伝えるのが難しいのであれば、まわりの人たちがもっと感染者に耳を傾け、彼らがどのような予防啓発を望むのかを聞くべきではないか。感染者自身の手を離れた予防啓発というのは、ともすれば感染者の望む方向性とは違う方向へ進んでいく危険性を孕んだものになりはしないだろうか?

                            S.A