紳也特急 99号

〜今月のテーマ『知育と感育』〜

●『中学2年女子』
○『評価指標が目的になった?』
●『授業の目的は「評価」?』
○『授業で知育を、講演では感育を』
●『正解がある教育、正解がない教育』
○『正解がないことが正解』
●『愛の反対は無関心』

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●中学2年女子
 「結果的に言うと、世界観が広がったと思う。私は生理的に、同性愛だとか、性交とかいうことは嫌がって考えようともせず、自分勝手に意見を述べて分かっていると思っていたけれど、私はこの話を聞いて、別の考え方ができるようになった。今考えるともしかしたら私はそんな人たちに対する差別意識があったのかもしれない。しかし、これからは、私は自分が納得できる形で、エイズの人や同性愛者の人たちを、快く受け入れられると思う。この前までの私は、人間性としておかしい所があったことがあったことがわかってよかった。これからも、ふとした時に、この問題や話を思い出して自分なりに考えていきたいと思う。」
 この感想をもらったすぐ後にある先生から、「岩室さんは学校教育における性教育の最終目標をどのように考えますか。現在、学校現場では授業のなかで、性教育の柱を探している、何を柱に教えていいのか迷っている現状があります。薬物やAIDSのように、学習内容が具体的に表現できないのが原因かも知れません。ただ、日々の授業は講演とは違い、授業中の評価や知識理解評価(テスト)等があり、これが性教育及び全ての学習内容が彷徨っている原因かも知れません。」と投げかけられました。
 同性愛という人たちがいる。同性愛の人たちを差別してはいけない。性交という行為で妊娠が成立する。そのような「知識」を知っているか否かの評価は簡単です。しかし、同性愛や性交を自分の問題として感じてもらえるようにするには、「知識」を伝えるだけではだめだということをこの生徒さんの感想に教えてもらいました。では、私の話は知識を教え込む、教育する「知育」に対比するとしたら何なのでしょうか。
 感想を書いてくれた彼女は、私と同性愛の人との関係性に学んでくれました。人の思いを感じるこころ、共感するこころ、感性を育むことを「感育」とでも呼ぶとしたら、それは画一的なものとして教えられるものではないですよね。彼女の中にあった「感じる力」が私の話とたまたま出会った、合致したのだと思います。
 そこで、今月のテーマを「知育と感育」としました。

『知育と感育』

○『評価指標が目的になった?』
 先の先生の話ですと、学校教育の学習計画には到達目標や年間計画(シラバス)評価(興味・関心・理解等)があり、教師は教育目標の理念よりも、具体的な実践例や具体的な到達目標が知りたいとのことでした。さらに管理職はそのシラバス等により人事評価(査定)を行わなければならないとのことでした。
 この話を聞き、学校教育も、健康づくりの分野も同じジレンマに陥っているということがわかりました。健康づくり、公衆衛生の分野で最近よく言われるのが、「ヘルスプロモーションや地域づくりのような理念的な話はいいから、どうやってハイリスクの連中の首根っこを捕まえて徹底的な指導をしてメタボを減らし、医療費を削減するかを考えなければならない時だ。しかし、地域保健の連中にいろいろ言っても、評価に耐える仕事をせずに御託を並べるだけだ。何がQOL(生活の質)だ。関係性の再構築だ。そんなことより医療費を減らせ。これからは保険料を徴収している保険者に責任を負わせ、健康づくりが上手く行かなければ保険者にペナルティーを科す特定健診・特定保健指導を普及させる」という状況になっています。
 健康づくりの目標が医療費削減でいいのという議論もありますが、医療費削減という大命題の前ではあまりにも無力な反論となっています。なぜそうなってしまうのでしょうか。
 健康づくりのそもそもの目的は、国民一人ひとりが健康になることです。そうなれば医療費は自ずと減るでしょう。しかし、人が健康になる方法は千差万別で、とりあえず多い病気(糖尿病等)は何か、とりあえずその病気の原因(メタボ等)は何か、とりあえずの対策(やせさせる等)は何か、ということが明らかになると、とりあえずメタボを予防して医療費を下げようとなっています。本来、健康づくりを目標とするのであれば多様な取り組みを展開する必要がありますが、いつの間にか評価指標であるはずの医療費を削減することを目標にしたメタボ対策が展開されようとしています。

●『授業の目的は「評価」?』
 「小中高の先生方は確かに迷っています。講演会ですと基礎的な知識や理念、メッセージ等で話は終わりますが、教員研修等では授業で使える実践例が求められます。」
 こう言われた時に「ガッテンです」と思いました。評価をしない授業はあり得ません。そのため、何らかの評価をすることを前提に授業が組み立てられていきます。ある意味、授業の目的は「評価」です。
 ところが「評価」が目的の授業に「評価」に耐えないテーマ、課題が選ばれたとしたら、その授業を担当している先生は何をすべきなのでしょうか。今回、徳育を学校現場で教えるか否かの話になりましたが、それが無理だというのは多くの方が感じたことだと思います。
 性教育はそもそも知識教育、「知育」だけで完結するものではありません。徳育と同じです。冒頭の生徒さんの感想から、彼女のこころに何かが響き、彼女の感動するこころ、共感するこころを呼び覚まし、育んだこの経験こそが「感育」です。
 では「感育」を評価するとしたら、「あなたが感動した回数」で評価するのでしょうか。違いますよね。評価されるのは「感育」の受け手ではなく、「感育」をしている人がどれだけ受け手に「感動を与えられたか」です。もちろん、すべての人に感動を与えられるはずがないので、感動的なメッセージをより多く伝えられているか否かが評価指標となるはずです。
 一方で「感育」の怖さは、感性、感情に訴える内容であるだけに、どのような内容であっても否定的な感じ方をする人が必ずいるということです。このことは逆に、万人に受け入れられる「正解」しか受け入れられない人には「この感育はおかしい」という発想になり、受け入れられない、理解しえないこととなります。

○『授業で知育を、講演では感育を』
 具体例で考えてみました。

 コンドームなしでセックスをするとHIVに感染する可能性がある=○

 これは授業で教え、テストを行い、評価に耐える事実です。コンドームを教えたくないという人がいても、「知育」ですので、中学生なら知識として知っておく必要がありますと言われれば受け入れるしかありません。しかし、

 同性間性的接触でHIVに感染する人が増えているのはコンドームを使おうとしても、「お前、オレを疑っているのか? それともお前が病気持ち?」という会話になるから=○△×?

 正解はないですよね。そのようなこともあるかもしれないけど、そうではないこともあり得ます。すなわち、講演と授業の違いは、バリエーション、例外、異なる多様な解釈等々を認めた上で、多様性を感じられないと、いろんな可能性があることを感じられないと自分自身にもいろんなことが起こり得るよ、ということを伝えることが目的です。
 「授業」は正解を伝え、正解を覚え、正解を解答できるようにすること、知識を伝える「知育」が目的です。それに対して「講演」はどちらかと言えば正解がない問題について、何かを感じ、あわよくば聴き手の問題意識を喚起することが目的のようです。そもそも教師が行う授業と外部講師が行う講演では「目的」が違っているようです。

●『正解がある教育、正解がない教育』
 紳也特急88号の「学校教育の基本」で紹介させていただいた教育現場の声、「正解はこれです。なぜならば」という現在の学校教育の基礎となる手法を知った時には気付かなかったのですが、「正解がある教育」をするのが今までの学校教育だとすると、「正解がない教育」は誰がするのでしょうか。「徳育が大事だ」というのは正解ですが、「徳育は学校で教えて身につくもの」というのは正解ではないということは多くの人が気付いているところです。
 少なくとも私は「正解がない教育」をいろんなところで受けてきました。家族の中で、地域で、学校でそのようなことを教わってきました。では、今、誰が「正解がない教育」を子どもたちにしているのでしょうか。

○『正解がないことが正解』
 いじめはいけない=○
 いじめはなくならない=○
 しかし、いじめはいけないという大前提に、この正解を子供たちに伝えなければならない先生方は、人間という、いじめをやめられない存在を語ることをせずに「正解」を伝える必要があります。しかし、本音のところでは「いじめなんてなくなるわけがない」と思っていると思います。
 でも、「何か変?」と思いませんか。人として、人間として持っている本性を、事実を否定してまでも「正解」として伝えることが正しいことでしょうか。「正解がないことが正解」ということを伝えなくてはいけないと思いませんか。いじめは是か非か。もっと大きな世界で言うならば、戦争は是か非か。もちろん「非」です。でも現実に存在します。その事実を直視し、事実として認めつつ、それを公然の事実として認めない選択肢を自分の中に持つには、「正解がないことが正解」ということを感じられるような「感育」が必要なのかなとあらためて思いました。

●『愛の反対は無関心』
 この言葉は多くの若者たちのこころに響きます。私のこころにも響きました。でもやっとその理由がわかったような気がします。
 そもそも自分にも無関心だった若者が、無意識の中で「愛」を求め、セックスをし、でもどこか自分の思いとは違うと思いつつこころにもないセックスに走り、でもどこか違うと思っている。そこに、「愛の反対は無関心」という言葉にたどり着くことで、あらためて自分にも関心を持ち、周囲にも関心を持つ中で、生きている意味も何となく感じられるのではないでしょうか。
 性教育は目的ではなく、人を育てる手段です。だからこそ、評価が出る「知育」を受けた生徒さんが、知識と自分の感性のずれに気付ける「感育」と合わせた性教育があって初めて性教育が効果的なものになります。学校の先生が学習指導要領に沿って行った「知育」をベースに、学校だけではできない外部講師による「感育」を合わせた性教育が広まることを今後とも模索したいと思いました。
 あらためて今回の感想をくれた彼女に感謝です。